グスタフ・マーラー
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ブルックナーとの関係
ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。
17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている[34]。
ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが[35]、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している[36]。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している[37]。
シェーンベルクとの関係
マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。
彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モルが男を押さえ込んだ[注釈 11]。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた[38][39]。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った[40][39][41]。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」
シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している[37]。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている[42]。
ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった[21]。
作風
マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である[43]。
- “諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてこれらの主題は、リズムの性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーとの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F3%2F30%2FMahler_Composition_Hut_Klagenfurt.jpg%2F200px-Mahler_Composition_Hut_Klagenfurt.jpg)
マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。
楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた[44]。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)
歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。
多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり[45]、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された[46]。
現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにもかかわらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている[47]。
- “マーラーが偶像視されるようになったのは偶然ではない。演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう”
注釈
- ^ イージドール、グスタフ、エルンスト、レオポルディーネ、カール、ルドルフ、アロイス、ユスティーネ、アルノルト、フリードリヒ、アルフレート、オットー、エマ、コンラート。
- ^ 当時のヨーロッパは乳幼児の死亡率が極めて高かった。
- ^ 曲はフランツ・リスト編曲『結婚行進曲と妖精の踊り』
- ^ “erl”は、南ドイツおよびオーストリア方言における指小辞の変種である。「モーツァルト」を愛称形にしている。
- ^ マーラーが生まれ育った時期は、長らくドイツ民族地域の盟主として君臨してきたオーストリアが普墺戦争で敗戦し、プロイセンによって統一ドイツから除外されるという激動の時代だった。さらにアウスグライヒでハンガリー人に内政面での大幅な譲歩を強いられ、チェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。
- ^ マーラーの交響曲作品がウィーンで評価されるようになったのは晩年からである。それ以前は、マーラーの自作演奏についてウィーンのジャーナリズムなどから「自作の宣伝に憂き身をやつしてばかりいる」と中傷されることすらあった。
- ^ この「ボヘミアン」という表現には、「ボヘミア地方の出身者」という文字通りの意味のほかに、ヨーロッパでは「流浪者」「自由奔放の民」(ボヘミアニズム)を表す比喩でもあり、いささか侮蔑的ながらも特別な含意がある。実際にボヘミア地方の出身者であると同時に「定住の地・定職がないが自由な芸術家」という意味を掛けており、一種の自嘲あるいはユーモアを込めた回答であると解することもできる。
- ^ クレンペラーはこの件について、交響曲第8番になぞらえマーラーを「創造主なる精霊」(creator spiritus)であると賛美している。
- ^ 「ユダヤ人ではない」という意味。
- ^ これはマーラーとトスカニーニの指揮者としての姿勢の違いを考慮する必要がある。マーラーが活躍した時代、指揮者は「作曲者がいま生きていたらこうするはず」と、楽器や演奏技術の進歩を念頭に置いた「主観的修正」をし演奏することが作法であり教養だった。当然、その姿勢は(マーラーとは6年半しか年齢差がないとはいえ)「新しい指揮者」であるトスカニーニとは全く違う。
- ^ 小柄なマーラーに対し、モルは大男だった。
出典
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- ^ a b c 船山 1987, p. 12.
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- ^ “(4406) Mahler = 1933 HF = 1978 GA5 = 1978 JJ3 = 1979 OD4 = 1983 CS5 = 1987 YD1 = 1989 FN”. MPC. 2021年10月8日閲覧。
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