セオドア・アイスフェルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 05:05 UTC 版)
セオドア・アイスフェルト Theodore Eisfeld | |
---|---|
1957年 - 1958年期の写真[1] | |
基本情報 | |
生誕 | 1816年4月11日 |
出身地 | ヴォルフェンビュッテル |
死没 | 1882年9月16日(66歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | |
担当楽器 | ヴィオラ |
セオドア・アイスフェルト(Theodore Eisfeld, 1816年4月11日-1882年9月16日)は、ドイツの指揮者、作曲家、ヴィオラ奏者である[2]。ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ(のちのニューヨーク・フィルハーモニック)の指揮者を務めたほか、ヴィオラ奏者として弦楽四重奏団を組織し、アメリカにおける室内楽演奏のパイオニアとなった[2][3][4]。
生涯
渡米以前
1816年4月11日、ドイツのヴォルフェンビュッテルで生まれる[2]。ブラウンシュヴァイクでカール・ミュラーにヴァイオリンを師事し、ドレスデンでカール・ゴットリープ・ライシガーに作曲を師事したほか、ボローニャでジョアキーノ・ロッシーニにも師事した[2][5]。1839年から1843年にかけてヴィースバーデンの宮廷歌劇場で指揮者を務めたほか、パリでも活躍した[2]。
アメリカ時代
1848年にニューヨークへと移住したのち、アイスフェルトはニューヨークのクラシック音楽文化の振興に貢献し、尊敬される存在となった[3]。アイスフェルトは作曲家のアンソニー・ハインリヒと交流を持ったほか[6][7]、1850年に作成されたアメリカン・アート・ユニオンのメンバーリストには、アイスフェルトの名前が記された[8]。
ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティとの活動
アイスフェルトは1849年にニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを指揮して成功を収めた[2][5]。これにより1849年から1850年のシーズンには4つのコンサートのうち3つを指揮するようになり、1852年-1853年シーズンには同団の初代首席指揮者となった[2][9][10]。アイスフェルトは1865年までこの地位にあったが、途中で病気になったこともあり1854年からはカール・バーグマンと交互に指揮をするようになった[2][11][12]。また、アイスフェルトは1850年から1866年にかけて同団の役員を務め、1856年からは副理事長を務めた[2]。
なお、アイスフェルトはニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの他にも、ニューヨーク・ハーモニック・ソサエティやブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮したほか[13][14][注 1]、軍楽隊のコンサートも指揮した[16]。また、ニューヨークで初めてイタリアオペラを上演した[17]。
室内楽演奏
オーケストラの指揮の他にも、アイスフェルトはヴィオラ奏者として室内楽の演奏を行っており、アメリカにおける室内楽演奏のパイオニアと言われた[2][3][注 2]。
1849年から1850年にかけて、ヘルマン・サロニが主催する “Saroni’s Musical Times” で行った一連の室内楽コンサートが成功したことを受けて、アイスフェルトは1851年から1859年にかけて自身の室内楽コンサートシリーズを実施した[2][18]。アイスフェルト自身はヴィオラ奏者を務め、ヴァイオリン奏者のヨーゼフ・ノル[19]、同じくヴァイオリン奏者のチャールズ・レイエス、チェロ奏者のL. アイヒホルンと弦楽四重奏団を結成し(1855年にはチェロ奏者がフレデリック・バーグナーに交代した)[20]、曲目によってはピアニストのオットー・ドレーゼルやギュスターヴ・サッターを加えた[2][21][22][注 3]。なお、1851年2月18日にホープ・チャペルで行われた第1回演奏会のプログラムは以下のとおりである[3]。
- フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲『弦楽四重奏曲第78番「日の出」』
- フェリックス・メンデルスゾーン作曲の歌曲数曲
- フェリックス・メンデルスゾーン作曲『ピアノ三重奏曲第1番』
- フランツ・シューベルト作曲の歌曲
- ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲『弦楽四重奏曲第1番』
アイスフェルトの室内楽コンサートは上流階級のアマチュア音楽家たちから支持された[17]。コンサートではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シュポアなどの曲を取り上げたが、「古典の作品が多すぎる」と言われることもあった[17]。ただし、ニューヨークでは室内楽曲が演奏されることは少なかったぶん、これらの曲目はニューヨークの聴衆たちにとっては新鮮なものであった[17]。なお、アイスフェルトはヴィオラの他にも、ヴァイオリンやピアノの演奏にも堪能であったという[3]。
ヨーロッパ凱旋後
1866年にはヨーロッパに戻り引退したとされる[3][2]。帰国後は、フランクフルトにおけるオペラや音楽祭を鑑賞した様子や[25][26]、ヴィースバーデンで室内楽を演奏する様子をアメリカにいる友人の評論家に書き送ったりしている[27]。1882年9月16日にヴィースバーデンで死去した[3]。
作曲活動
アイスフェルトは作曲家としても認められており、ソリストのために作曲した作品はニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティでも演奏された[2]。アイスフェルトの作品には以下のようなものがある[2]。
- ピストン式コルネットのためのエレジー・カンタービレ[2]
- ソプラノのための “Variations de Bravura”[2]
- バリトンのための “Scena Italiana di Concerto”[2]
- クラリネットのためのコンチェルティーノ[2]
事故
1858年、アイスフェルトがヨーロッパに帰る際に乗っていた蒸気船オーストリア号が炎上してしまった[5]。食料もない状態で2日ほど漂流したにもかかわらず、アイスフェルトは奇跡的に助かり、数少ない生還者の1人となった(死者は471人におよんだ)[5][2]。ただ、これによりアイスフェルトは神経症となってしまった[2]。
評価
アイスフェルトはニューヨークのクラシック音楽文化の振興に貢献し尊敬された[3]。1851年にニューヨーク・ハーモニックを指揮して行われたメンデルスゾーン作曲『聖パウロ』の公演では、アイスフェルトの統率力や正確さ、力強さなどが賞賛された[28]。
一方で、指揮者のセオドア・トマスはアイスフェルトについて「ただ拍子を刻み、間違いを修正するだけの指揮者だった」「アイスフェルトの弦楽四重奏団は特に重要な成果を残していない」と評している[29][30]。また、歴史家のジョーゼフ・ホロウィッツは、アイスフェルトよりもカール・バーグマンの方が魅力的な指揮者であったと記している[31]。
脚注
注釈
- ^ 指揮者のセオドア・トマスは、ブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮した際はアイスフェルトやカール・バーグマンと同額のギャラを受け取ったが、その額はオーケストラメンバーのギャラよりも低かったと記している[15]。なお、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティについてもギャラは低かったと記している[15]。
- ^ アイスフェルトと同時期に室内楽を演奏したグループとしては、1855年から活動を開始したセオドア・トマスとウィリアム・メイソンによるものがある[1]。
- ^ オットー・ドレーゼルとは、ピアニストおよびオルガニストのウィリアム・シャルフェンベルクの仲介で知り合った[23]。また、ドレーゼルと同じくアイスフェルトと室内楽で共演したピアニストのギュスターヴ・サッターは、アイスフェルトが指揮するオーケストラとも共演した[24]。
出典
- ^ a b Burkat, Ross & Oteri 2013.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u Shanet 2013.
- ^ a b c d e f g h Ritter 1883, p. 275.
- ^ Times 1911, p. 8.
- ^ a b c d Appletons' Cyclopædia of American Biography 1900, p. 317.
- ^ Upton 1939, p. 237.
- ^ Upton 1939, p. 238.
- ^ Bulletin of the American Art-Union 1850, p. 183.
- ^ Thomas 1905, p. 34.
- ^ Oestreich 1992.
- ^ Ritter 1883, p. 348.
- ^ Thomas 1905, p. 36.
- ^ The American Art Journal 1866, p. 21.
- ^ Ritter 1883, p. 281.
- ^ a b Thomas 1905, p. 37.
- ^ Shive 1997.
- ^ a b c d Ritter 1883, p. 276.
- ^ Urrows 2013.
- ^ Goldberg 2013b.
- ^ Goldberg 2013a.
- ^ Thomas 1905, p. 31.
- ^ Johnson 1963, p. 62.
- ^ Urrows 1994, p. 348.
- ^ Johnson 1963, p. 66.
- ^ Eisfeld 1866, p. 119.
- ^ Eisfeld 1866, p. 120.
- ^ Eisfeld 1867, p. 331.
- ^ The Musical Times and Singing Class Circular 1851, p. 185.
- ^ Thomas 1905, p. 35.
- ^ Thomas 1905, p. 126.
- ^ Horowitz 2020, p. 47.
参考文献
- “A List of Members of the American Art-Union for the Year 1850”. Bulletin of the American Art-Union (10): 179-188. (1850-12-31) .
- “Brief Chronicle of the Last Month”. The Musical Times and Singing Class Circular (Musical Times Publications Ltd.) 4 (84): 185-186. (1851-5-1) .
- “Brooklyn Philharmonic Society!”. The American Art Journal (The American Art Journal) 6 (2): 21-22. (1866) .
- Burkat, Leonard; Ross, Gilbert; Oteri, Frank J. (2013). "Chamber music in the United States". Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.A2240370. 2021年12月22日閲覧。
- Eisfeld, Theodore (1866-06-14). “A Letter from Theodore Eisfeld”. The American Art Journal (The American Art Journal) 5 (8): 119-120 .
- Eisfeld, Theodore (1867-05-16). “Correspondence.”. The American Art Journal (The American Art Journal) 6 (21): 331 .
- Goldberg, Bethany (2013a). “Bergner, Frederic”. Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.A2083826. 2021年12月21日閲覧。
- Goldberg, Bethany (2013b). “Noll, Joseph”. Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.A2084021. 2021年12月21日閲覧。
- Horowitz, Joseph (2020). Wagner Nights. Berkeley: University of California Press. doi:10.1525/9780520323049
- Johnson, H. Earle (1963). “Gustave Satter, Eccentric”. Journal of the American Musicological Society (University of California Press) 16 (1): 61-73 .
- Oestreich, James R. (1992年11月29日). “What Hath Ureli Corelli Hill Wrought?”. New York Times
- Ritter, Frédéric Louis (1883). Music in America. New York: Charles Scribner's Sons. OCLC 23862794
- Shanet, Howard (2013年). “Eisfeld, Theodor(e)”. Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.A2085070. 2021年12月17日閲覧。
- Shive, Clyde S., Jr. (1997). “The 'first' band festival in America.”. American Music 15 (4) .
- “Sir Henry Wood.”. Times: p. 8. (1911年4月27日)
- Thomas, Theodore (1905). George P Upton. ed. Theodore Thomas: a Musical Autobiography. Chicago: A.C. McClurg & Co.. OCLC 932580
- Upton, William Treat (1939). Anthony Philip Heinrich: A Nineteenth-Century Composer in America. New York Chichester, West Sussex: Columbia University Press. doi:10.7312/upto90360
- Urrows, David Francis (2013年). “Saroni, Herrman S.”. Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.A2088195. 2021年12月21日閲覧。
- Urrows, David Francis (1994). “Apollo in Athens: Otto Dresel and Boston, 1850-90”. American Music (University of Illinois Press) 12 (4): 345-388 .
- Wilson, J. G.; Fiske, J., eds. (1900). Appletons' Cyclopædia of American Biography (英語). New York: D. Appleton. .
外部リンク
- Theodore Eisfeld - New York Philharmonic
- Eisfeld, Theodorの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
固有名詞の分類
- セオドア・アイスフェルトのページへのリンク