T600の展開と政府の強制
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「タトラ (自動車)」の記事における「T600の展開と政府の強制」の解説
同時期にシュコダでも戦後型小型車である1100cc車「1101」を登場させており、この1101に小型モデルの地位を譲って戦前からのT57bを製造終了したタトラは、中型であるタトラプランを乗用車の主力モデルとした。1947年から生産再開されていた「T87」はこの間、1950年に製造を終了している。 タトラプランは発売後まもなくからラリー競技でも好成績を収めたことから、発展形として2ドアのアルミボディを持つ「T601」(タトラプラン・モンテカルロ)が試作されている。モンテカルロはその名のとおり、ラリー・モンテカルロ出場を目標に開発されたものであるが、これは実現しなかった。1951年には空冷ディーゼルエンジン搭載のタトラプラン「T600D」が3台試作されたが、量産には至らなかった。 変わった例としては(共産政権が成立しても存続していた)ソドムカ工場製の贅沢なオープンボディを持つ特製のT600が1948年に製作された。翌1949年のジュネーブ・モーターショーで展示されたこのカブリオレは、同年、チェコスロバキア政府からソ連の指導者ヨシフ・スターリンの70歳の誕生日プレゼントとしてソ連に贈られたが、スターリン死後にチェコに返還され、タトラ博物館に収蔵されている。 1948年、オートバイメーカーのCZからその親会社だったシュコダに移籍した経歴を持つ自動車技術者のユリウス・マカーレ(Julius Mackerle 1909年-1988年)が、シュコダからタトラに移籍した。マカーレは以後長きにわたってタトラのチーフエンジニアを勤めることになる。 マカーレとタトラ技術陣は、1949年、T600シャーシをベースにエンジンを前後逆転させてミドシップレイアウトとし、フルワイズタイプの空力スペシャルボディを与えたレーシングモデル「T602」を開発する。その開発目的は技術力向上のため、レースフィールドでタトラプランのコンポーネンツの信頼性を試すことにあった。最初のT602は1949年のチェコスロバキアGPでは、マセラティ、フェラーリ、シムカ・ゴルディーニなどの強豪に伍して総合9位に入賞している。1949年当初62HPだったエンジンは、1950年シーズンには圧縮比アップで83HPとなった。最初の4気筒602は1951年6月にレース中に事故で破損、翌1952年シーズンでは4輪駆動車用に開発されたV8・2.5Lエンジン(のちのT603用エンジンの原型)をチューンして135HPを発生するユニットを搭載したバージョン1台が作られたが、こちらの8気筒版も1953年の速度記録走行挑戦中に火災喪失している。 また1950年には、モノポスト型のミドシップレーシングカー「T607」をチェコスロバキアGP用に開発。これらは2台が製作され、のちのT603用となるV8・2.5Lを年々チューニングしながら、1958年までに35回のレースに出場、チェコ国内で好成績を挙げた。1953年には速度試験で197km/h〜207km/hを、1959年には215km/hの速度を達成している。重要な特徴は、空冷エンジン用軸流ファン駆動を排気ガス圧のエジェクター効果で補助するシステムを組み込んだことで、6,000rpmで20HPほどに達する冷却ファン駆動出力損失を大きく軽減できた。このユニークなシステムは、のちにT603にも導入されている。 一般型T600は生産されたうちの半分以上が輸出された。しかも共産圏諸国よりも、西側諸国への輸出が多かったのは意外な事実である。オーストリアや西ドイツ、スウェーデン、ベルギー、スイスといった中欧・西欧へ、またカナダにも輸出された。工業国チェコの戦前からの実力がまだ損なわれていなかった時期の製品であり、十分な成功を収めていたと見てよい。オーストリアやスイスに輸出されたT600は、リアエンジンゆえの山岳地帯における優れたトラクションで評価を受けていた。またT600は右ハンドル車も少数存在する。 ところが1951年、生産効率を重視する共産政府の命令により、タトラは「タトラプラン」の製造を中止させられる。「タトラにはトラック生産に専念させ、生産台数の少ない乗用車はシュコダ1社に集中生産させるのが合理的である」というのが政府の「プラン」であった。タトラ側は懸命に阻止しようとしたが、抗えなかった。 結果、シュコダのムラダー・ボレスラフ(Mlada Boleslav)工場(当時はAZNPを称していた)が「タトラプラン」を生産するという奇妙な状況となった(両者は戦前、ライバルメーカーだった)。タトラプラン生産ラインの設備はコプジブニツェから撤去され、全てがムラダー・ボレスラフに移された。 この前代未聞の強引な指令には、タトラとシュコダ双方の関係者が強く不満を抱いた。腹を立てたタトラの労働者たちは、自ら手がけて愛着あるタトラプランの新車を、工場の敷地に穴を掘って埋めることで抗議したという。 シュコダ製タトラプランは全て輸出に充てられ、翌年の1952年まで生産された。車体後部の形状がタトラ製と若干違い、フードがやや角張っていることで容易に識別できる。タトラプランの総生産台数は、タトラ製4,242台、シュコダ製約2,100台と言われる。同時期、AZNPは政府・共産党上層部向けの大型車開発・製造も担当し、1950年から1952年までプラガ製5.2Lエンジンを搭載したフロントエンジン大型リムジン「シュコダ・VOS」を限定生産した。 共産党政権の方針は、更に上位にある東側ブロックの盟主・ソビエト連邦の意向で左右された。1952年にAZNPでタトラプラン/シュコダ・VOSの製造が止められ、短期間ながら、チェコ製の中型・大型乗用車が生産されない空白期間に入った。代わりにソ連からチェコスロバキアにも、VOSにも比肩する最高級リムジンのZIS、T87やスペルブに近い大型車のGAZ-12ZIM、タトラプラン同クラスの中型車GAZポピェーダ(Pobjeda)などが供給されたが、チェコスロバキアに比べソ連の自動車国産化は30年遅れたものでおり、ソ連車は概して評判が良くなかったようである。しかも共産圏衛星諸国からの需要に、ソ連での自動車生産能力が追い付かず、需要に対して供給が滞っていたという論外な実態があった。 戦前に製造された生き残りの中・大型車は経年で老朽化し、戦後に製造されたT87、スペルブ、VOSの台数はわずかで、需要を満たせなかった。国内向けに残されたタトラ社製タトラプランの台数も限られていた状況で、チェコスロバキア国内の上級乗用車需給は逼迫した。
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