T600の展開と政府の強制とは? わかりやすく解説

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T600の展開と政府の強制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:44 UTC 版)

タトラ (自動車)」の記事における「T600の展開と政府の強制」の解説

同時期にシュコダでも戦後型小型車である1100cc車「1101」を登場させており、この1101に小型モデル地位譲って戦前からのT57bを製造終了したタトラは、中型であるタトラプランを乗用車主力モデルとした。1947年から生産再開されていた「T87」はこの間1950年製造終了している。 タトラプランは発売後まもなくからラリー競技でも好成績収めたことから、発展形として2ドアアルミボディを持つ「T601」(タトラプラン・モンテカルロ)が試作されている。モンテカルロはその名のとおり、ラリー・モンテカルロ出場目標開発されたものであるが、これは実現しなかった。1951年には空冷ディーゼルエンジン搭載のタトラプラン「T600D」が3台試作されたが、量産には至らなかった。 変わった例としては(共産政権成立して存続していた)ソドムカ工場製の贅沢なオープンボディを持つ特製のT600が1948年製作された。翌1949年ジュネーブ・モーターショー展示されたこのカブリオレは、同年チェコスロバキア政府からソ連指導者ヨシフ・スターリン70歳誕生日プレゼントとしてソ連贈られたが、スターリン死後チェコ返還されタトラ博物館収蔵されている。 1948年オートバイメーカーCZからその親会社だったシュコダ移籍した経歴を持つ自動車技術者のユリウス・マカーレ(Julius Mackerle 1909年-1988年)が、シュコダからタトラ移籍した。マカーレは以後長きわたってタトラのチーフエンジニアを勤めることになる。 マカーレとタトラ技術陣は、1949年、T600シャーシベースエンジン前後逆転させてミドシップレイアウトとし、フルワイズタイプの空力スペシャルボディを与えたレーシングモデル「T602」を開発する。その開発目的技術力上のため、レースフィールドでタトラプランのコンポーネンツ信頼性を試すことにあった最初のT602は1949年チェコスロバキアGPでは、マセラティフェラーリ、シムカ・ゴルディーニなどの強豪伍して総合9位に入賞している。1949年当初62HPだったエンジンは、1950年シーズンには圧縮比アップで83HPとなった最初4気筒6021951年6月レース中に事故破損、翌1952年シーズンでは4輪駆動車用に開発されV8・2.5Lエンジン(のちのT603エンジン原型)をチューンして135HPを発生するユニット搭載したバージョン1台が作られたが、こちらの8気筒版も1953年速度記録走行挑戦中に火災喪失している。 また1950年には、モノポスト型のミドシップレーシングカー「T607」をチェコスロバキアGP用に開発。これらは2台が製作され、のちのT603用となるV8・2.5Lを年々チューニングしながら1958年までに35回のレース出場チェコ国内好成績挙げた1953年には速度試験で197km/h〜207km/hを、1959年には215km/hの速度達成している。重要な特徴は、空冷エンジン軸流ファン駆動排気ガス圧のエジェクター効果補助するシステム組み込んだことで、6,000rpmで20HPほどに達す冷却ファン駆動出力損失大きく軽減できた。このユニークなシステムは、のちにT603にも導入されている。 一般型T600は生産されたうちの半分以上輸出された。しかも共産圏諸国よりも、西側諸国への輸出多かったのは意外な事実である。オーストリア西ドイツスウェーデンベルギースイスといった中欧西欧へ、またカナダにも輸出された。工業国チェコ戦前からの実力がまだ損なわれていなかった時期製品であり、十分な成功収めていたと見てよい。オーストリアスイス輸出されたT600は、リアエンジンゆえの山岳地帯における優れたトラクション評価受けていた。またT600は右ハンドル車少数存在する。 ところが1951年生産効率重視する共産政府命令により、タトラは「タトラプラン」の製造中止させられる。「タトラにはトラック生産専念させ、生産台数少な乗用車シュコダ1社に集中生産させるのが合理的である」というのが政府の「プランであったタトラ側は懸命に阻止しようとしたが、抗えなかった。 結果シュコダムラダー・ボレスラフ(Mlada Boleslav)工場当時はAZNPを称していた)が「タトラプラン」を生産するという奇妙な状況となった両者戦前、ライバルメーカーだった)。タトラプラン生産ライン設備はコプジブニツェから撤去され全てムラダー・ボレスラフ移された。 この前未聞強引な指令には、タトラシュコダ双方関係者強く不満を抱いた腹を立てたタトラ労働者たちは、自ら手がけて愛着あるタトラプランの新車を、工場敷地に穴を掘って埋めることで抗議したという。 シュコダ製タトラプランは全て輸出充てられ、翌年1952年まで生産された。車体後部形状タトラ製と若干違いフードがやや角張っていることで容易に識別できる。タトラプランの総生産台数は、タトラ製4,242台、シュコダ製約2,100と言われる同時期、AZNPは政府共産党上層部向けの大型車開発・製造担当し1950年から1952年までプラガ製5.2Lエンジン搭載したフロントエンジン大型リムジンシュコダ・VOS」を限定生産した。 共産党政権方針は、更に上位にある東側ブロック盟主ソビエト連邦意向左右された。1952年にAZNPでタトラプラン/シュコダ・VOS製造止められ短期間ながら、チェコ製の中型大型乗用車生産されない空白期間入った代わりにソ連からチェコスロバキアにも、VOSにも比肩する最高級リムジンZIST87やスペルブに近い大型車のGAZ-12ZIM、タトラプラン同クラス中型車GAZポピェーダ(Pobjeda)などが供給されたが、チェコスロバキア比べソ連自動車国産化30年遅れたものでおり、ソ連車は概して評判良くなかったようである。しかも共産圏衛星諸国からの需要に、ソ連での自動車生産能力追い付かず需要に対して供給滞っていたという論外実態があった。 戦前製造され生き残り中・大型車は経年老朽化し戦後製造されT87、スペルブ、VOS台数はわずかで、需要満たせなかった。国内向けに残されタトラ社製タトラプランの台数限られていた状況で、チェコスロバキア国内の上乗用車需給逼迫した。

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