姜維とは? わかりやすく解説

姜維Jiang Wei

キョウイ
キヤウヰ

202264
左大将軍・録尚書事・督中外軍事・仮節・涼州刺史平襄

字は伯約天水郡冀県の人。

父姜冏は天水郡功曹を務めていて、羌族叛乱遭遇したとき郡将庇って戦死した幼くして父を失ったので母と二人で暮らした鄭玄流の学問好み、郡に出仕して上計掾となり、さらに州に召されて従事任じられた。父の功績により姜維は中郎となり、天水郡軍事参画することになった

建興六年(二二八)、蜀の諸葛亮祁山現れたが、天水太守馬遵領内巡察のため姜維・功曹梁緒主簿尹賞・主記虔・郡吏上官子脩らを伴って外出であった。しかし馬遵は、各県寝返った聞くと姜維たちの忠誠心疑い夜陰紛れて逃亡し上邽県城立て籠もった。姜維たちは追いかけ上邽城に辿り着いた城門開かれなかった。そこで冀県帰ったがやはり城門閉ざされていた。やむなく諸葛亮降参した。蜀の先鋒馬謖街亭敗北喫し諸葛亮西県住民千戸連行して帰国したが、姜維は彼に同行したので母と生き別れになってしまう。諸葛亮は姜維を得て大い満足し、留府長史張裔参軍蔣琬に「姜維は仕事忠実に勤め思慮が行届いている。劭・馬良さえも彼に及ばないだろう。中虎歩軍五六千人調練する役目彼に委ねそのあと宮廷参内させて陛下お目通りさせたいものだ」と述べ、彼を倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯とした。ときに二十七歳。

次第昇進して監軍征西将軍となった。同十二年に諸葛亮没する成都帰還し、右監軍・輔漢将軍任命され諸軍統率し平襄侯に爵位上げられた。延煕元年二三八)に蔣琬随行して漢中駐留、彼が大司馬昇進するとその司馬となり、一軍率いてたびたび西方進出した。同六年、鎮西大将軍涼州刺史昇進し、同十年には衛将軍任じられ大将軍費禕とともに録尚書事となる。同年汶山郡平康県の蛮族叛乱鎮圧。また隴西南安金城進出してにて魏の大将軍郭淮夏侯霸戦った。蛮王治無戴らが住民ともども降伏してきたので彼らを成都近く移住させた。同十二年、仮に節を与えられる。ふたたび西平出た勝利できず帰陣した。

姜維は西方風俗詳しく軍才を自負していたので、羌族たちを仲間引き入れれば西域手中にできると考えていたが、費禕彼の計略僥倖を恃んだものと危ぶみ、一万上の大軍与えなかった。しかし同十六春に費禕亡くなると、その年の夏になって姜維は数万大軍催し、石営・董亭を経由して南安包囲した。魏の雍州刺史陳泰南安東南の洛門に到着すると、兵糧不足のため撤退した

十七年、督中外軍事任じられる。ふたたび隴西出陣すると狄道県李簡降伏してきた。さらに襄武進み、魏の将軍徐質撃ち破って首を斬った。多く敵兵降伏させ、河関狄道臨洮の三県の住民連行して蜀の民とした。

十八年、車騎将軍夏侯霸とともに狄道進出、洮水の西で雍州刺史王経撃ち破って数万人を殺し、さらに狄道城を包囲した。魏の征西将軍陳泰救援のため駆け付けてきたので退却、鍾題に駐屯した。

十九年春、任地において大将軍拝命した。鎮西大将軍胡済連繋して上邽県で合流しようとした胡済現れず、段谷にて魏の鄧艾大敗して多数死者出した。そのため人々は彼を恨んで西方離叛相次いだ。姜維は失策認めて降格願い出後将軍・行大将軍事となった。

二十年、魏の征東大将軍諸葛誕淮南において叛乱したので、魏の軍勢東方向かって手薄になった。姜維は軍勢数万率いて駱谷を通り沈嶺に着陣した。その北にあった長城には大量食料貯蔵してあったので、魏の大将軍司馬望がその守備固め、また隴右から鄧艾駆け付けてきた。姜維は進んで陣営築き何度も挑発したが、司馬望鄧艾渭水沿岸要害築いて守り固めるばかりだった。そのまま越年し諸葛誕滅ぼされたと聞いて撤退した大将軍復帰した

漢中防衛について建議し述べるに「守備隊漢城楽城まで下げ、敵を深く侵入させて挟み撃ちにすれば大勝利収められます」と。この計略認められ、督漢中胡済後方漢寿に下がり、監軍王含楽城護軍蔣斌漢城を守ることになった

景耀五年(二六二)、侯和に出陣した鄧艾敗れ退いて中に駐屯した。こうして姜維は毎年のように軍勢動かした勝利を得られず、もともと他国の人だったので孤立深めていった。しかも宦官黄皓右大将閻宇結託し、姜維の失脚画策していた。あるとき姜維は成都帰り黄皓取り除くべきと皇帝劉禅進言した。しかし劉禅聞き入れず黄皓を姜維のもとに送って詫び入れさせた。姜維は身の危険感じ黄皓屯田したいと告げて成都去りそのまま帰ることができなくなった

翌六年、魏の鍾会大軍動員準備していると知り張翼廖化陽安関・陰平守らせるよう本国要請した。しかし黄皓巫女言葉信じて敵が来ないと考え劉禅取り上げないよう告げ、その経緯誰にも知らされなかった。

やがて鍾会が駱谷に出陣し鄧艾が沓中に進軍して、ようやく劉禅は、右車騎将廖化に沓中の姜維を支援させ、左車騎将張翼輔国大将軍董厥らを陽安関に向かわせた。魏の諸葛諸が建威に入った聞いて姜維はこれを防いだが、一ヶ月ほどして鄧艾攻撃され陰平まで退いた一方鍾会漢城陽安関を陥落させたので、陰平放棄して剣閣まで後退した。ここで張翼董厥合流して抵抗したので、鍾会は進むことができず姜維に手紙送って懐柔ようとしたが、姜維は返答しなかった。

しかし鄧艾険路強行し景谷道を進み緜竹まで侵入して諸葛瞻撃破した。そこで皇帝劉禅鄧艾降伏した。姜維は諸葛瞻敗北以来劉禅動向注目していたが、降伏せよとの勅命受けたので武装解除し鍾会のもとに出頭した将兵はみな怒りにふるえ、刀を抜いて石を叩き割った鍾会は「なぜ来るのが遅れたのか」となじったが、姜維が「今でも早すぎたと思っております」と答えたので、彼を立派な人物だと思った

鍾会は姜維らを手厚く持てなし、彼らの官印・節・車蓋などを全て返してやった。鍾会外出時にはつねに姜維を馬車同乗させたり、室内では同じ敷物に座らせたりして寵愛し長史杜預に「姜維の立派さ諸葛誕夏侯玄でも及ばないだろう」と言った。姜維は鍾会叛逆意図があると見抜き、それを利用すれば蜀を再興できるだろうと考えた。そこで告げるに「貴方は毌丘倹諸葛誕叛乱鎮圧し、また蜀を平定して絶大な手柄立てました。しかし平和な時代が来ると韓信大夫種のように誅殺されますぞ。世俗棄てて仙人暮らしをなさいませ」、鍾会「もっともであるが私には浮世離れしたことはできない。他に手段はあるだろうか」、姜維「では貴方の才能用いるだけのことです」と。鍾会鄧艾冤罪被せ更迭、姜維らを率いて成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆し、姜維に軍勢五万与えた。魏の将兵怒り鍾会とともに姜維を殺害した

参照尹賞 / 閻宇 / 王含 / 王経 / 夏侯玄 / 夏侯霸 / 郭淮 / 毌丘倹 / 韓信 / 姜冏 / 胡済 / 黄皓 / 司馬望 / 諸葛諸 / 諸葛瞻 / 諸葛誕 / 諸葛亮 / 上官子脩 / 蔣琬 / 蔣斌 / 鍾会 / 大夫種 / 治無戴 / 張裔 / 張翼 / 陳泰 / 鄭玄 / 杜預 / 董厥 / 鄧艾 / 馬遵 / 馬謖 / 馬良 / 費禕 / 劭 / 劉禅 / 虔 / 諸 / 廖化 / 渭水 / 陰平郡 / 陰平 / 益州 / 街泉亭街亭) / 成固県(楽城県) / 沔陽県漢城県) / 葭萌県(漢寿県) / 漢中郡 / 祁山 / 冀県 / 魏 / 金城郡 / 景谷道 / 建威 / 剣閣 / 侯和 / 上邽県 / 鍾題 / 蜀 / 沈嶺 / 西県 / 成都県 / 西平 / 石営 / 段谷 / 長城 / 狄道県 / 天水郡 / 洮 / 董亭 / 沓中 / 当陽亭 / 南安郡 / 汶山郡 / 平康県 / 平襄県 / / 緜竹県 / 雍州 / 陽安関 / 駱谷 / 涼州 / 隴西郡 / 隴右 / 淮南 / 右監軍 / 右車騎将軍 / 右大将軍 / 衛将軍 / 監軍 / 侯 / 功曹従事 / 護軍 / 後将軍 / 左車騎将軍 / 左大将軍 / 参軍 / 刺史 / 司馬 / 従事 / 主記 / 主簿 / 上計掾 / 征西将軍 / 征東大将軍め倉曹掾 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 中監軍 / 中郎 / 長史 / 鎮西大将軍 / 亭侯 / 督 / 奉義将軍 / 輔漢将軍 / 牧 / 輔国大将軍 / 留府長史 / 録尚書事 / 仮節(仮の節) / 宦官 / 羌族 / 行 / 車蓋 / 中虎歩軍 / 屯田 / 巫女





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