1990年死刑確定囚(7人)
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事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)東京港区・銀座連続強盗殺人事件 (N) 1990年2月22日 1978年5月21日1978年6月10日 1946年(昭和21年)12月18日生まれ。1980年1月18日に東京地裁(小野幹雄裁判長)で死刑判決を、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた。共犯のHは1988年に上告を取り下げ、死刑が確定。自身も1990年2月1日に最高裁第一小法廷(四ツ谷巖裁判長)で上告棄却判決を受け、死刑が確定した。1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(50歳没)。 熊本主婦殺人事件(金川一) 1990年4月21日 1979年9月11日 1950年(昭和25年)7月7日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在71歳)。客観的証拠がなく、第一審の途中から無実を主張したが、1982年6月14日に熊本地裁八代支部(河上元康裁判長)で無期懲役判決。控訴審・福岡高裁(緒方誠哉裁判長)では1983年3月17日に一審破棄・死刑判決を受けた。1990年4月3日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)で上告棄却判決を受けた。異議申立も同月20日付で棄却され、同月21日付で死刑が確定。 永山則夫連続射殺事件(永山則夫) 1990年5月9日(正式な死刑確定日) 1968年10月11日 - 11月5日 「警察庁広域重要指定108号事件」。1949年(昭和24年)6月27日生まれ。各事件当時19歳の少年死刑囚。1979年7月10日に第一審・東京地裁刑事第5部(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を受けたが控訴し、1981年8月21日に控訴審・東京高裁刑事第2部(船田三雄裁判長)は第一審判決を破棄自判して無期懲役判決を言い渡した。しかしこの控訴審判決を不服とした東京高検が最高裁へ上告したところ、1983年7月8日に最高裁第二小法廷(大橋進裁判長)は上告審判決公判で「死刑を回避した控訴審判決は量刑不当。破棄しなければ著しく社会正義に反する」などとして原審を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した。最高裁が量刑不当を理由に被告人に不利益な方向で控訴審判決を破棄して高裁への差し戻しを命じた事例は戦後刑事裁判史上初で、最高裁は同時に判決理由で死刑適用基準について初めて詳細に明示した(後の「永山基準」)。差し戻し後の控訴審では1987年3月18日に東京高裁刑事第3部(石田穣一裁判長)が第一審・死刑判決を支持して被告人・永山の控訴を棄却する判決を言い渡した。そして1990年4月17日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)が上告棄却判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持)を言い渡し、永山は同判決に対し訂正を申し立てたが、これも最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)から棄却決定が出されたため、(決定が永山に通達された)1990年5月9日に死刑が確定。1997年8月1日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)。 長崎3人殺害事件(村竹正博) 1990年4月27日 1978年3月21日 1944年(昭和19年)3月30日生まれ。第一審・長崎地裁佐世保支部(亀井義朗裁判長)では情状酌量により無期懲役判決(1983年3月30日)を受けたが、控訴審・福岡高裁(桑原宗朝裁判長)で1985年10月18日に一審破棄・死刑判決を受けた。1990年4月27日に最高裁(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定。1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(54歳没)。 空知連続殺人事件 (H) 1990年10月25日(正式な死刑確定日) 1972年5月6日1972年8月19日1974年5月12日 1934年(昭和9年)5月8日生まれ。離婚後、重機の運転手として勤務しながら男で1つで小学生の息子2人を育てていたが、1972年5月6日に空知支庁管内・月形町で女子専門学校生A(当時19歳)を乗用車内で暴行して窒息死させた(殺人・強姦致死事件)ほか、同年8月19日には同管内奈井江町でデパート店員の女性B(当時19歳)を同様の手口で殺害して遺体を山林に遺棄した(殺人・強姦致死および死体遺棄事件)。また1974年5月12日には奈井江町内で農家の主婦C(当時40歳)を乗用車で拉致し、強姦して負傷させた上で農道上に放置する事件(強姦致傷事件)を起こし、同年5月26日にC事件の容疑で緊急逮捕された。その後A・B両被害者の殺害を自供し、1974年6月6日にC事件(強姦致傷)の加害者として、同月22日にはA事件(殺人・強姦致死)とB事件(殺人・強姦致死および死体遺棄)の加害者としてそれぞれ起訴された。「証拠は違法捜査による自白のみで物証がない」として無罪を主張。1976年6月24日に札幌地裁岩見沢支部は罪状のうち死体遺棄を無罪と判断し、殺意も否定して無期懲役判決を言い渡したが、被告人H・検察官とも控訴した。その後、札幌高裁は検察官の主張を全面的に認め、1979年4月12日に原判決を破棄して死刑判決を言い渡した。上告審では安田好弘らが弁護団を再編して弁護活動を行ったが、1990年9月13日に最高裁(角田礼次郎裁判長)で上告棄却判決を受け、同年10月23日付で判決訂正の申し立ても棄却されたため、同月25日に死刑が確定。死刑確定後の1992年9月24日に札幌高裁へ再審請求したが、2001年2月16日に再審請求棄却決定がなされた。同月19日に異議申し立てをしたが2003年3月31日に異議申し立ても棄却されたため、同年4月7日に最高裁へ特別抗告していた。札幌刑務所札幌拘置支所に収監されていたが、2003年8月にスキルス性胃癌と診断され、同年12月には胃の全摘手術を八王子医療刑務所で受けた後、収監先・札幌拘置支所へ戻り療養していた。しかし2004年6月4日、癌性悪液質により札幌刑務所の病舎内で病死(70歳没)。 三崎事件(荒井政男) 1990年10月16日 1971年12月21日 1927年(昭和2年)2月4日生まれ。1976年9月25日に横浜地裁横須賀支部(秦不二雄裁判長)で死刑判決を受け、1984年12月18日には東京高裁(小野慶二裁判長)で控訴棄却判決。1990年10月16日に最高裁(坂上壽夫裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定。東京拘置所に収監されていたが、再審請求中の2009年9月3日に所内で病死(82歳没)。死後、家族が再審を引き継いだ。救援会の機関紙『潮風』がある。
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