1990年民主化での動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/06 16:47 UTC 版)
「ガネーシュ・マン・シンハ」の記事における「1990年民主化での動き」の解説
西暦1990年のネパール民主化運動(ジャナ・アンドラン)では、左翼政党の共闘を促進し統一左翼戦線を結成させる。運動開始を前に自宅軟禁されるが、体調を理由に病院に入院し、比較的自由な生活を送ることができたが、抗議活動には参加できなかった。国王と当時の首相チャンドは政党側に複数政党制を認めたものの、パンチャーヤト制を温存する解決案を提示し、国王との面会を求めたが、シンは最後までパンチャーヤト制度廃止にこだわり、政党代表が会うことは認めたものの自ら国王と会うことは拒否した。 また、パンチャーヤト制度が廃止になり、新内閣が組織される段になって、ビレンドラ国王から首相になってほしいという打診があったが、自分はならないといって、党首のバッタライを推した。 1994年、ネパール会議派を離党。
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