1983 YMOジャパンツアー
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1983 YMOジャパンツアー | ||||
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イエロー・マジック・オーケストラ の コンサート・ツアー | ||||
場所 | ![]() |
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関連アルバム | 浮気なぼくら サーヴィス |
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初日 | 1983年11月23日 | |||
最終日 | 1983年12月22日 | |||
行程 | 1 | |||
公演数 | 9 | |||
イエロー・マジック・オーケストラ ツアー 年表 | ||||
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1983 YMO ジャパンツアー(1983 YMO JAPAN TOUR)とは、日本の音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が1983年に行った、最後の国内ツアーの名称。
解説
- 通称「散開ツアー」「散開コンサート」。
- 舞台演出は黒テントの佐藤信、舞台美術は妹尾河童が担当。
- 荘厳かつ重厚、またファシズムを連想させるセット、ステージ衣装が特徴。この構想は佐藤によるものであり[1]、メンバーは関与していなかった。
- 曲によって、4人の外国人女性のダンサーが登場する。この演出に関しても、メンバーの意向とは無関係のところで決められた[2]。
- 演奏ブースは可動式であり、坂本、細野のブース、高橋のボーカル・パーカッション・フレーズ用のブースは上下に可動、ドラムセット用ブースは前後に可動し、演奏曲によって変化していた。
- このツアーでは、事前に演奏したメロディをMTRで流し、メンバーは伴奏に徹するという手法をとった。メロディを収録したテープは坂本龍一によって制作された[3]。テープを使用するというアイデアはテクニカルアシスタンスの藤井丈司によるもの[4]。
- ヴォーカルに専念したいと言う高橋幸宏の意向により[5]、自らのツアーに参加していたABCのドラマー、デヴィッド・パーマーがサポートに加わっている。
- (実際に高橋がドラムを担当したのは、序盤の「東風」「ビハインド・ザ・マスク」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」、終盤の「テクノポリス」「ライディーン」、アンコールの「ファイアークラッカー」のみ。)
- 散開(解散)後、同ツアーを題材にした映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』が制作されている。
- 詳細は『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』を参照。
公演
日付 | 都市 | 会場 |
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1983年11月23日 | 札幌 | 北海道立産業共進会場 |
1983年11月28日 | 名古屋 | 愛知県体育館 |
1983年11月29日 | 大阪 | 大阪城ホール |
1983年11月30日 | ||
1983年12月3日 | 郡山 | 郡山総合体育館 |
1983年12月12日 | 東京 | 日本武道館 |
1983年12月13日 | ||
1983年12月19日 | 福岡 | 福岡国際センター |
1983年12月22日[注 1] | 東京 | 日本武道館 |
サポート・メンバー
音源
- アフター・サーヴィス
- コンプリート・サーヴィス
- テクノ・バイブル
- アフター・サーヴィス・アウトテイクとして、「シャドウズ・オン・ザ・グラウンド」「マッドメン」「チャイニーズ・ウィスパーズ」「パースペクティヴ」を収録。
- FM放送(1983年オン・エア、1984年再放送)
- 1983年12月29日に、散開ライブ最終日(12月22日)の公演がNHK-FMでオンエアされた(「リンボ」を除く)。この日の演奏はアフター・サーヴィスのテイクとは異なりベースやキーボードの音がより目立っている。(ライブアルバム『コンプリート・サーヴィス』には、『アフター・サーヴィス』に収録されなかった楽曲(「リンボ」を含む)がこの日に収録された音源で補われている)。
映像作品
- 『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』
- 『Y.M.O.伝説 1983散開コンサート at 武道館』(1993年リリース)
- TV放送(1983年オン・エア、1984年再放送)
- 1983年12月31日に、NHK総合にてツアー最終日の模様がオンエアされた。ライブの模様だけでなく、メンバーそれぞれのトークコーナー(ゲスト:伊武雅刀、デヴィッド・ボウイなど)が盛り込まれている。冒頭と最後に、細野晴臣のナレーションが入っている。
- 同日のライブは、翌年の1984年5月5日に再放送された。(ライブビデオ『Y.M.O.伝説 1983散開コンサート at 武道館』はこの番組をもとに制作されている)「上記のトークコーナーがない」「一部の楽曲が異なる」「細野のナレーションがない」などの違いがあった。
脚注
注釈
出典
関連項目
- トランス・アトランティック・ツアー(最初の世界ツアー)
- テクノポリス2000-20(最初の国内ツアー)
- FROM TOKIO TO TOKYO(2度目の世界ツアー)
- ウィンター・ライヴ1981(2度目の国内ツアー)
「1983 YMO ジャパンツアー」の例文・使い方・用例・文例
- 1983年のパリのオルリー空港のASALA爆破は、8人を殺して、55人を負傷させた
- チリの共産党の武装した武装派とし1983年に形成されたテロリスト集団
- 米国のダンサー、振付師(ロシア生まれ)で、抽象的で形式的な作品で知られる(1904年−1983年)
- スペインの映画監督(1900年−1983年)
- 米国のプロボクサーで、世界ヘビー級チャンピオン(1895年−1983年)
- 米国の女優(英国生まれ)で、アルフレッド・ラントと結婚し、多くの作品で彼と共演した(1887年−1983年)
- 米国の建築家で、ジオデシックドームを発明した(1895年−1983年)
- 米国の作詞家で、弟のジョージ・ガーシュインとしばしば合作した(1896年−1983年)
- 英国人の作家(ハンガリー生まれ)で、1930年代のスターリン主義一掃を暴く小説を書いた(1905年−1983年)
- スペインの超現実主義な画家(1893年−1983年)
- 英国の舞台俳優、映画俳優で、古典的な役柄で知られる(1902年−1983年)
- 米国の女優で、多くの無声映画に出演した(1899年−1983年)
- 英国の作曲家(1902年−1983年)
- 英国の作家(アイルランド生まれ)(1892年−1983年)
- 米国の脚本家(1911年−1983年)
- 会社員がリストのトップになったのは1983年以来初めてである。
- この映画は記録破りのヒット作となり,シリーズはエピソード5(1980年)とエピソード6(1983年)に続いた。
- 福岡春(はる)奈(な)選手は一生懸命戦って第3試合に勝利したが,日本は次の2試合で敗れ,1983年大会以来の決勝進出は果たせなかった。
- 東京ディズニーランドは1983年4月に,東京ディズニーシーは2001年9月に開園した。
- 1983年にニューヨークへ渡り,1990年に日本料理店「Takahachi」をオープン。
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