後期 : ソロ活動〜再始動〜そして「散開」へとは? わかりやすく解説

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後期 : ソロ活動〜再始動〜そして「散開」へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:59 UTC 版)

イエロー・マジック・オーケストラ」の記事における「後期 : ソロ活動〜再始動〜そして「散開」へ」の解説

翌年1982年YMOとしての実質的な音楽活動行われなかった。各メンバーソロ活動同時に歌謡界への曲提供力を入れることとなる。 細野はっぴいえんど時代盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベル設立ソロアルバムフィルハーモニー』を発表する坂本郷ひろみ前川清などの楽曲プロデュースまた、忌野清志郎と共にシングルい・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督映画戦場のメリークリスマス』の撮影俳優(ヨノイ大尉役)として参加また、自身としては初となる映画音楽手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月ら行う。 YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、芸を披露している。細野は“林家三平”“柳家金語楼”“大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまね披露しラスト坂本高橋高橋細野細野坂本ものまねをして終えた翌年1983年3月カネボウ化粧品CMタイアップとなったシングル君に、胸キュン。」で、YMOとしての音楽活動再開。この曲以降1981年前衛的なサウンドBGM』 『テクノデリック』から一転今度ポピュラー志向日本語テクノ歌謡展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ惜しくも2位に終わる(しかしYMOシングルとしては最大売上枚数記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム浮気なぼくら』を発表またしてもそれまでイメージ劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存歌謡曲超えた緻密なサウンド構成され先鋭的作品であったしかしながら、このアルバムが「解散」を前提制作されていたアルバムとは、この時点メンバー以外はまだ誰も知らないまた、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲ヴォーカル部分シンセメロディー置き換えたリミックス盤浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバム収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。 この時期メンバー3人の年齢30代過ぎていたこともあり、TV番組イベント等出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながら振り付け施されるなどの徹底ぶりであった当時高橋担当の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、1980年6月リリースの『増殖のような、S.E.T.によるコント交えたアルバム制作する案が高橋から持ちかけられ解散記念としてギャグ色の濃いアルバムサーヴィス』が制作されることになった。 そして10月雑誌GORO」のインタビューで、初め正式に散開」(解散)が表明された。この「散開宣言について、雑誌「Soundall」(12月号)のインタビューで、細野は「僕は散開に関して別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くショッキングだろうから、その辺考慮して解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。 旧YMOとしての最後ライブツアー散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパンツアー」が11月23日から札幌道立産業共進会場よりスタート全国6会場行われるツアー最終日となる12月22日日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念国連大学協力によるチャリティー・コンサート観客全て無料招待)だった。 アルバムサーヴィス』はツアー中の12月14日発売また、12月12日-13日日本武道館公演収録した2枚組アルバムアフター・サーヴィス』は、翌年1984年2月21日発売同年4月5日昨年12月12日13日日本武道館公演素材として制作され映画A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会新宿シアターアプルにて行いメンバー3人も姿を見せプロモーション活動行った。旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。同映画4月18日渋谷公会堂にて上映以後全国109か所で公開された。 このあと1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せことはなかった。

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