1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年とは? わかりやすく解説

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1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 10:20 UTC 版)

フランシス・プーランク」の記事における「1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年」の解説

プーランク1950年代は、私生活での新しパートナー登場幕を開けたその人物、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベールは旅のセールスマンだった。本業実り多くエリュアールの詩による7曲から成る歌曲集冷気と火』(1950年)、そして1950年画家のクリスチャン・ベラール(英語版)の想い出書かれ翌年初演されスターバト・マーテル生み出されている。 1953年プーランクスカラ座ミラノ出版社リコルディからバレエ委嘱受けた。はじめはコルトナの聖マルガリタ英語版)の話を構想したが、彼女の生涯舞踏では表現不可能であると思い至る宗教的主題オペラ書くこと希望した彼に対しリコルディジョルジュ・ベルナノスによる映像化されていない映画台本であったカルメル会修道女の対話』を提案したテクストはゲルトルート・フォン・ル・フォール(英語版)が描いたコンピエーニュ殉教者英語版)、フランス革命時に信仰のためにギロチンかけられ修道女たちを扱った小説基づいている。プーランクはこれを「いたく感動的かつ崇高な作品」であり、自作リブレットとして理想的であると考えると、1953年8月作曲着手した。 このオペラ作曲中、プーランク2つショック苦しめられた。作家のエメット・レイヴァリー(英語版)がル・フォール小説舞台化する権利有しており、ベルナノス遺作権利衝突起こしていることを知る。これによってオペラ仕事中断することになった同時期にルベール重篤な病に冒されてしまった。極端な不安の結果プーランク神経変調をきたし、1954年11月パリ郊外ライ=レ=ローズにある医院入院安静となった回復した頃にはレイヴァリーとの間の文学的権利ロイヤルティー支払いに関する紛争には片が付いており、ベルナックと手広く行っている演奏旅行合間に『カルメル会修道女の対話』の仕事再開した1920年代以降彼の個人資産減少続けており、リサイタル開いて相当額収入を得る必要があったのであるオペラ仕事続ける間、他の仕事にはほとんど手を付けなかった。例外2つフランス歌曲「6人組」時代からの旧友であるオーリックミヨー加わった合作マルグリット・ロンの名による変奏曲』(1954年)から「牧歌」である。プーランクオペラ最後ページ書いていた1955年10月ルベール47歳この世去ったプーランク友人次のように書き送っている。「リュシアン10日前に苦役から救い出されました。『カルメル会修道女』の最終稿完成したのは愛しい人最期に息をした、まさにその瞬間だったのです。」 オペラ初演1957年1月に、スカラ座においてイタリア語翻訳行われたプーランクこれからフランス初演までの間に、後期作品の中でも指折り人気を誇る『フルートソナタ』を書き上げた。曲は6月ストラスブール音楽祭において、ジャン=ピエール・ランパル作曲者自身演奏披露された。『カルメル会修道女の対話』がパリオペラ座初演されたのは、その3日後の6月21日であった初演大成功となりプーランク大い安堵した作品向けられた評は「ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ベルクの『ヴォツェック』に続く作品」という絶賛であったこの頃プーランク退役軍人のルイ・ゴーティエとの最後の恋愛関係に落ちていく両名プーランク没するまでパートナーであり続けたプーランク恋愛対象として好んだのは、中流以下のインテリではない男性だったのである大大大音楽家になるという思想囚われているというわけではないのだが、多くの人にとって自分が単に好色な二流』(petit maître)である事実はやはり私を苛立たせる中略スターバト・マーテル始まり人間の声』に至るまで、そのような面白おかしいものではなかったろうと述べねばなるまいプーランクの手紙より1959年 1958年プーランク旧知友人であるコクトー協力しコクトー1930年著したモノドラマ人間の声英語版)』のオペラ化仕事取り掛かった。この作品1959年2月6日コクトー演出オペラ=コミック座初演されデュヴァル電話通じて別れた恋人話しかける見捨てられ悲劇女性演じた5月には公の場からの引退を表明したベルナックとの最後のコンサートが行われ、数か月後に迫ったプーランク60回目誕生日花を添えたプーランク1960年1961年アメリカ訪問している。1960年訪米ドゥニーズ・デュヴァル帯同するもので、再び歓迎受けた。これらの演奏旅行の間にニューヨークカーネギー・ホールデュヴァルにより『人間の声』のアメリカ初演が行われ、ボストンシャルル・ミュンシュ指揮によりソプラノ4部混声合唱管弦楽のための大規模作品グローリア』が世界初演された。1961年には187ページに及ぶシャブリエに関する著作出版する。この本は1980年代評論家によって「彼は旋律第1に重要であること、そしてユーモア本質的に真剣であることといった事柄に関する見解共有する作曲家について、愛と洞察をもって筆を走らせている」と評されている。生涯独身であった彼の孤独な生活は、パリトゥレーヌ邸宅理想とする友人訪問中断されながら営まれていった最晩年12か月間の間には合唱管弦楽のための『テネブレ7つ応唱』、『クラリネットソナタ』、『オーボエソナタ』などの作品生み出された。 1963年1月30日リュクサンブール公園面した邸宅プーランク心臓発作起こして生涯終えたコクトー原作に基づく彼の4番目のオペラ地獄機械』の作曲取り掛かったところだった。葬儀近くサン=シュルピス教会執り行われた。彼の遺志従い本人の作品演奏されなかった。代わりにマルセル・デュプレ教会の大オルガンバッハ楽曲演奏した亡骸彼の家族とともにペール・ラシェーズ墓地眠りついている

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