1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年
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「フランシス・プーランク」の記事における「1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年」の解説
プーランクの1950年代は、私生活での新しいパートナーの登場で幕を開けた。その人物、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベールは旅のセールスマンだった。本業は実り多く、エリュアールの詩による7曲から成る歌曲集『冷気と火』(1950年)、そして1950年に画家のクリスチャン・ベラール(英語版)の想い出へ書かれて翌年初演されたスターバト・マーテルが生み出されている。 1953年、プーランクはスカラ座とミラノの出版社リコルディからバレエの委嘱を受けた。はじめはコルトナの聖マルガリタ(英語版)の話を構想したが、彼女の生涯は舞踏では表現不可能であると思い至る。宗教的主題でオペラを書くことを希望した彼に対し、リコルディはジョルジュ・ベルナノスによる映像化されていない映画台本であった『カルメル会修道女の対話』を提案した。テクストはゲルトルート・フォン・ル・フォール(英語版)が描いたコンピエーニュの殉教者(英語版)、フランス革命時に信仰のためにギロチンにかけられた修道女たちを扱った小説に基づいている。プーランクはこれを「いたく感動的かつ崇高な作品」であり、自作のリブレットとして理想的であると考えると、1953年8月に作曲に着手した。 このオペラの作曲中、プーランクは2つのショックに苦しめられた。作家のエメット・レイヴァリー(英語版)がル・フォールの小説を舞台化する権利を有しており、ベルナノスの遺作と権利衝突を起こしていることを知る。これによってオペラの仕事を中断することになった。同時期にルベールが重篤な病に冒されてしまった。極端な不安の結果プーランクは神経に変調をきたし、1954年11月にパリ郊外のライ=レ=ローズにある医院に入院、安静となった。回復した頃にはレイヴァリーとの間の文学的権利、ロイヤルティーの支払いに関する紛争には片が付いており、ベルナックと手広く行っている演奏旅行の合間に『カルメル会修道女の対話』の仕事を再開した。1920年代以降彼の個人資産は減少を続けており、リサイタルを開いて相当額の収入を得る必要があったのである。 オペラの仕事を続ける間、他の仕事にはほとんど手を付けなかった。例外は2つのフランス歌曲と「6人組」時代からの旧友であるオーリック、ミヨーも加わった合作『マルグリット・ロンの名による変奏曲』(1954年)から「牧歌」である。プーランクがオペラの最後のページを書いていた1955年10月、ルベールが47歳でこの世を去った。プーランクは友人に次のように書き送っている。「リュシアンは10日前に苦役から救い出されました。『カルメル会修道女』の最終稿が完成したのは愛しい人が最期に息をした、まさにその瞬間だったのです。」 オペラの初演は1957年1月に、スカラ座においてイタリア語翻訳で行われた。プーランクはこれからフランス初演までの間に、後期作品の中でも指折りの人気を誇る『フルートソナタ』を書き上げた。曲は6月のストラスブール音楽祭において、ジャン=ピエール・ランパルと作曲者自身の演奏で披露された。『カルメル会修道女の対話』がパリのオペラ座で初演されたのは、その3日後の6月21日であった。初演は大成功となりプーランクは大いに安堵した。作品に向けられた評は「ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ベルクの『ヴォツェック』に続く作品」という絶賛であった。この頃にプーランクは退役軍人のルイ・ゴーティエとの最後の恋愛関係に落ちていく。両名はプーランクが没するまでパートナーであり続けた。プーランクが恋愛対象として好んだのは、中流以下のインテリではない男性だったのである。 大大大音楽家になるという思想に囚われているというわけではないのだが、多くの人にとって自分が単に好色な『二流』(petit maître)である事実はやはり私を苛立たせる(中略)スターバト・マーテルに始まり『人間の声』に至るまで、そのような面白おかしいものではなかったろうと述べねばなるまい。 プーランクの手紙より、1959年 1958年、プーランクは旧知の友人であるコクトーと協力し、コクトーが1930年に著したモノドラマ『人間の声(英語版)』のオペラ化の仕事に取り掛かった。この作品は1959年2月6日にコクトーの演出でオペラ=コミック座で初演され、デュヴァルが電話を通じて別れた恋人に話しかける見捨てられた悲劇の女性を演じた。5月には公の場からの引退を表明したベルナックとの最後のコンサートが行われ、数か月後に迫ったプーランクの60回目の誕生日に花を添えた。 プーランクは1960年と1961年にアメリカを訪問している。1960年の訪米はドゥニーズ・デュヴァルに帯同するもので、再び歓迎を受けた。これらの演奏旅行の間にニューヨークのカーネギー・ホールでデュヴァルにより『人間の声』のアメリカ初演が行われ、ボストンでシャルル・ミュンシュの指揮によりソプラノと4部の混声合唱、管弦楽のための大規模作品『グローリア』が世界初演された。1961年には187ページに及ぶシャブリエに関する著作を出版する。この本は1980年代に評論家によって「彼は旋律が第1に重要であること、そしてユーモアが本質的に真剣であることといった事柄に関する見解を共有する作曲家について、愛と洞察をもって筆を走らせている」と評されている。生涯独身であった彼の孤独な生活は、パリとトゥレーヌの邸宅で理想とする友人の訪問に中断されながら営まれていった。最晩年の12か月間の間には合唱と管弦楽のための『テネブレの7つの応唱』、『クラリネットソナタ』、『オーボエソナタ』などの作品が生み出された。 1963年1月30日、リュクサンブール公園に面した邸宅でプーランクは心臓発作を起こして生涯を終えた。コクトーの原作に基づく彼の4番目のオペラ『地獄の機械』の作曲に取り掛かったところだった。葬儀は近くのサン=シュルピス教会で執り行われた。彼の遺志に従い、本人の作品は演奏されなかった。代わりにマルセル・デュプレが教会の大オルガンでバッハの楽曲を演奏した。亡骸は彼の家族とともにペール・ラシェーズ墓地で眠りについている。
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