駆け出し時代
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「クリント・イーストウッド」の記事における「駆け出し時代」の解説
1954年5月、イーストウッドは『六つの橋を渡る男(英語版)』の強盗役のオーディションに参加したが、監督のジョゼフ・ペフニー(英語版)は彼の演技に感銘を受けず、結果は落選となった。その後、立て続けに『ブリガドーン(英語版)』『The Constant Nymph』『進め!ベンガル連隊(英語版)』『七年目の浮気』『異教徒の旗印(英語版)』『Smoke Signal』『Abbott and Costello Meet the Keystone Kops(英語版)』のオーディションを受けるが、全て落選している。最終的にジャック・アーノルドの『大アマゾンの半魚人』の続編である『半魚人の逆襲』で端役をもらい映画デビューを果たした。イーストウッドに与えられた役は「研究員ジェニングス」という役で、1954年7月30日にユニバーサル映画第16スタジオで撮影が行われたが、彼が出演しない主要シーンはフロリダ州マリネランドで撮影された。その後、イーストウッドはマーガレットと共にアパートを引き払い、ユニバーサル通りのアパートに引っ越したが、このアパートには女優のギア・スカラ(英語版)とリリー・カーデルも住んでいた。このアパートにはアニタ・エクバーグが水着の写真撮影を行ったプールがあり、イーストウッドは水泳で身体を鍛えた。 1955年2月、イーストウッドはルビンの『Francis in the Navy(英語版)』に端役として出演して週給が300ドルに上がり、9月には『Lady Godiva of Coventry(英語版)』に端役として3週間撮影に参加した。その後、再びアーノルドが監督した『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』に戦闘機隊長役で出演した。同年5月には『ネバー・セイ・グッドバイ(英語版)』の撮影に4時間参加し、8月には『Star in the Dust』に牧童役として西部劇映画に初出演した。7月2日にはテレビドラマ『Allen in Movieland』に初出演したが、10月25日にディレクターのロバート・パーマーによってユニバーサル映画から解雇された。イーストウッドはパーマーの仕打ちを忘れず、後にマルパソ・プロダクション(英語版)を設立した際に、入社を求めたパーマーを門前払いしている。 イーストウッドは俳優仲間のベティ・ジェーン・ハウワースからの助言を受け、アダム・ウェストやリチャード・ロングの代理人を務めていたマーシュ・エージェンシーの広報担当者に接触した。同時期、イーストウッドはルビンの『The First Traveling Saleslady(英語版)』に出演している。イーストウッドとルビンの関係はその後も続き、『二人の可愛い逃亡者』や1960年代に彼が製作したテレビドラマに度々出演しているが、彼が俳優として成功した後は疎遠となり、『許されざる者』でオスカーを受賞した時まで再会することはなかった。この時期、ルビンからの出演依頼がイーストウッドの生活を支えていた。1956年1月にはABCのテレビドラマ『Reader's Digest』に出演し、同年後半からはテレビドラマ『ハイウェイ・パトロール』にギャング役で出演している。1957年のテレビドラマ『ウェストポイント』に士官学校生徒役で出演し、同時期に『Wagon Train(英語版)』『Death Valley Days(英語版)』にも出演している。1958年に『Navy Log(英語版)』に海軍士官役で出演し、1959年には『マーベリック』に出演した。 この間、イーストウッドはプール工事など複数の仕事をしながらジムに通いトレーニングをしていた。また、ニック・アダムス、アイリッシュ・マッカラ(英語版)、ジェイミー・ファー(英語版)などの俳優仲間と共にジャック・コスリンの主催する演技教室に通い指導を受けた。この頃、イーストウッドは妻や友人たちと共に夕食に出かけた際に、レストランの前で銃を持った強盗に襲われている。友人たちは逃げようとしたが、イーストウッドはその場に留まり、「引き金を引け。その前にお前たちを殺してやる」と威嚇し、強盗を追い払ったという。別の日には、友人とバーにいた際に船乗りのグループと喧嘩になり、「ハリウッドの馬鹿野郎」と罵られたうえに殴られたため、イーストウッドは船乗りたちに反撃して二人を病院送りにしている。 イーストウッドは『翼よ! あれが巴里の灯だ』の主演オーディションに参加するが、結果は(珍しく製作発表と同時に自らを売り込んだ、当時マネーメイキングスタートップ10常連でもある)ジェームズ・ステュアートが主演決定、落選した。しかし、彼は『壮烈! 外人部隊(英語版)』でパイロット役として出演し、『Ambush at Cimarron Pass(英語版)』では元奴隷キース・ウィリアムズ役として出演した。『Ambush at Cimarron Pass』ではリーガル・フィルムのスタジオで9日間撮影に参加したが、彼はこの映画には不満を感じており、映画が公開された際には「本当に落ち込んだ」と語り、俳優を辞めることを考えたという。
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駆け出し時代
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1980年、中学校1年生の時に全日本女子プロレスのオーディションを受け合格、入門を目指す練習生となる。この頃は「歌って踊れるアイドルレスラー」になることを夢見ていた。1983年、全日本女子プロレスに入門。二度のプロテスト不合格の後、三度目のプロテストでの正式入門だった。同年9月23日の戸田市スポーツセンター大会にて、本名の中野恵子でプロデビュー。中野vs柳下まさみ&小松美加組の1対2変則マッチ、3人ともデビュー戦であった。女子レスラーとしては長身で恵まれた身長(170cm)を持っていたが、入門当初の運動能力はぽっちゃり体格でとても鈍かった。それを人一倍の努力と練習で向上させていった。タレ目で愛嬌のある顔立ちから新人時代の愛称は「パンダちゃん」と呼ばれ (長与千種や同期の仲間達が命名)、新人当時から料理上手でレパートリーも豊富であったという。ヒールになってからのフェイスペイントはタレ目を隠すためでもあった。 本名で活動する新人時代から、秋の1983年度新人王トーナメント優勝、メインイベンターでもあり新人時代から可愛がられていた長与千種の付き人担当となったり、1984年9月13日の戸田大会にて全日本ジュニア王座を獲得するなど、同期の中では出世頭であった。その一方、ある同期をいじめて(ぶるちゃんねる内で小倉由美と対談して小倉をいじめていたと発言している。)全女内の風紀を乱していたために先輩レスラー達から睨まれて逆に無視されたり、理不尽ないじめにも遭うなど誰にも相手にされていなかったとも発言しており「派閥があったりいじめがあったり、同期の中でも問題があったりみんな仲が悪かった」と中野本人がインタビューなどで語っている。新弟子時代は食糧事情も悪く、派閥ができているため男子のプロレス団体のように弟子たちがちゃんこ鍋を囲んで食事をすることなどなかったため、初任給5万から寮費5千円を引いた4万5千円でやり繰りしなければならない中、人気がある先輩たちがもらった差し入れの食べ残しを食べるのが常であった。切り落としたキュウリの端が三角コーナーに捨てられていたのを食べようかどうかと葛藤するほど食糧には困っていた。紅生姜を米に乗せただけのものを食べることも多く、おかげで中野は紅生姜がトラウマになってしまったという。 そこへ、以前から中野に注目し気にかけており、以後師匠となるダンプ松本から『極悪同盟に入って私と一緒にやらない?』と声をかけられ、当初はヒールになるのは絶対に嫌だったので何度も断ったが、説得のためダンプに松永会長の元へ半ば強引に連れて行かれたりするなど、先輩の言うことには絶対服従で逆らえなかったために最終的には折れて極悪同盟に加入することになり、ダンプから本格的に世話をされるようになって可愛がられるようになったという。 後年、ダンプへのインタビューによると「ベビーフェース側からダンプが気に入った後輩一人を極悪側へ引き抜いてもいいよ」と全女の上役に言われており、中野ともう一人気になっていた選手のどちらかに決めようと考えていたという。
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