駆け出し作家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 08:09 UTC 版)
「ナンシー・ミットフォード」の記事における「駆け出し作家」の解説
ナンシーは父から貰う僅かばかりの小遣いを補う手段として、書き物を始め、ウォーからも奨励された。最初期の作品は社交界の雑誌のゴシップ欄に投稿する匿名記事であり、時として署名記事があった。1930年、雑誌「淑女」と連載コラムを書く契約をした。その年の冬、長編小説『ハイランド・フリング』を書き始めた。その中では彼女の友人、知人、家族とおぼしい様々な登場人物が、スコットランドのハウス・パーティに出席し、混乱状態を生みだすことになる。この本は1931年3月に出版されたが、ほとんど評判にならず、即座に次作『クリスマス・プディング』を書き始めた。一作目と同様、この作品も「明るい若者」と古い世代の衝突を筋にしていた。ハーミッシュ・アースキンは明らかに「ボビー・ボビン」として登場しており、ジョン・ベチェマンがボビーの家庭教師という脇役のモデルだった。このあまり隠し立てしない風刺で充満した本はリーズデール夫人を驚かせ、ミットフォード自身の名前では出版されてはならないと思った。 アースキンとナンシーの間の交際は間歇的に続いていた。ナンシーはこの関係に見込みはないと思うことが多かったが、他からの結婚の申し込みは「ハーミッシュ以外の誰とも結婚するつもりはない」と言って断っていた。1932年、妹のダイアナを巻き込むスキャンダルでナンシーの誓約に陰りが生じた。ダイアナは1928年にブライアン・ギネスと結婚し、2人の息子ができていた。1932年、ダイアナは夫を捨てて、イギリスファシスト連合の指導者オズワルド・モズレーの愛人になった。モズレーは結婚しており、3人の子供がいた。家族の中ではナンシーだけがダイアナを支持し、定期的に訪問しては家族のことや社交界のゴシップを伝えていた。アースキンとの情事は突然終わりになった。1933年6月、アースキンがロンドンの銀行家の娘と結婚するつもりであることを伝えてきた。ナンシーは別れた後の最後の手紙で「貴方の心の中で貴方は私を愛したと思う。結局私たちは子供を持ち、年取った時に人生を振り返るべきだった。」と書いていた。
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