風刺画家へとは? わかりやすく解説

風刺画家へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 22:59 UTC 版)

ジョルジュ・ビゴー」の記事における「風刺画家へ」の解説

当時写真技術的な信頼性欠けていたため、陸軍士官学校では記録用に写生正課として教えていた。ビゴーはフークの尽力陸軍大山巌紹介得て1882年10月から1884年10月までの2年間、お雇い外国人として絵画講師雇用され安定した立場高額報酬を得ることができた。この間日本庶民の生活をスケッチした3冊の画集自費出版している。日本社会を知る目的もあって、遊廓にも出入りする生活であった。しかし、講師契約が切れると洋画教える場所はなかった。幸い、自費出版した画集外国人居留地に住む外国人から好評得たことから、ビゴーその後居留地外国人(主にフランス人)向けに絵を描くことで日本住み続けることとなったビゴー上記通り浮世絵興味示し訪日後はその習得にも関心示したが、深入りすることはなかった。それは、当時日本では江戸時代のような浮世絵が既に作られなくなっていたことに加え浮世絵描かれ世界庶民生活の中にはまだ残っていることに気づき日本での生活から自らの芸術の題材を見つけようしたためであったビゴー当時日本の世相版画スケッチなどの形でときには風刺伴った絵に表現した当時彼の作品には日本人興味を持たなかった(当たり前すぎて題材にしなかった)ものも多く題材としており、今となっては貴重な資料ともなっている。 1885年、『改進新聞』の専属画工になったその折紹介記事では「仏国江戸子なりと自称せり」とある。 1885年1886年1887年二度わたって半年間、中江兆民仏学塾フランス語教える。ビゴー中江門弟とも交流し当時自由民権運動模様にも接することになる。1886年にはいったん帰国検討するが、フランスの『ル・モンド・イリュストレフランス語版)』やイギリスの『ザ・グラフィック(英語版)』といった新聞から日本題材とした報道画家の職を得たため、さらに滞在延ばしたこの頃には『団団珍聞』への漫画寄稿1885年)や『郵便報知新聞』に掲載され翻訳小説の挿絵1886年)など、日本大衆目に触れる仕事も行うようになるビゴーフランスでは漫画描いたことはなく、日本で『団団珍聞』や『ジャパン・パンチ』(居留地向け)といった風刺画中心メディア接して、自らも漫画進出したビゴー残した風刺画中には影絵形式複数コマ並べてストーリー仕立てたものがある。4コマ漫画との関連について、清水勲は、ビゴーは7~10コマ複数コマ使用しており、ビゴー描いた4コマ漫画日本の漫画家のものを筆写した例があるだけだと記している。とはいえ清水は「ビゴーヨーロッパ比較長いコマ漫画スタイル日本もたらした」とも評している。 報道画家仕事経済的な基盤ができたこともあり、1887年居留フランス人向けの風刺漫画雑誌トバエ』を創刊し日本の政治題材とする風刺漫画多数発表した同年先行するジャパン・パンチ』は終刊した。発行していたチャールズ・ワーグマンは、ビゴーの絵のうまさを見て決意したという見方もある。ビゴーは『トバエ第5号で「さらば!わが友」と題してピエロビゴー)が侍(ワーグマン)を見送る絵を載せたビゴー条約改正には当時居留民同調して時期尚早であるという立場を取る。当時の『トバエ』には中江兆民とその門弟協力して日本語キャプション付けていた。彼らは政府批判という面で協力したとみられている。日本語キャプション付されたのは、ジャーナリスト影響与えることを目的日本の新聞社や雑誌送付していたためであった。 なお、清水勲は、ビゴーが『トバエ』で主張したことについて、 条約改正時期尚早である。 明治政府国民反対押さえて条約改正強行しようとしている。 日本近代化にはまだ時間がかかる。 の3点指摘している。 居留地外国人商売相手発行所も(治外法権のある)居留地とする一方ビゴー自身居留地に住むことはなく、日本人の生活を間近で知るために日本人の住む街並みに身を置いた仏学塾教えていた当時麹町区二番町現・東京都千代田区)に住み1887年頃から1890年までは向島現・東京都墨田区)という、外国人としてはかなり辺鄙な場所に居住したその背景には『トバエ』に掲載した風刺画による警察からの監視身の危険感じ壮士気づかれるのも避けたいという事情もあった。1890年には牛込区市谷仲之町現・東京都新宿区)に再び転居する。ここは、ビゴー来日初期から世話になった士族佐野清の居宅のある市谷本村町からは至近の距離にあったビゴー取材対象政治限らず1888年の磐梯山噴火1891年濃尾地震1896年三陸大津波といった災害にも、上記外国通信員として取材行っている。磐梯山取材の際には写真の力を痛感し、自らも写真技術を身につけた濃尾地震では撮影した写真をもとに報道画を描いている。これらの報道画はビゴーが本来の画業培った写実的なのであるこの間ビゴーフランスサロン油彩画出品し続けた。しかし、若い頃写実主義影響強く受けたまま祖国離れたビゴー画風は、印象派などの新し流派主流となったフランスでは時代遅れとなっており、度重なる出品にもかかわらず滞日当時入選することはなかった。

※この「風刺画家へ」の解説は、「ジョルジュ・ビゴー」の解説の一部です。
「風刺画家へ」を含む「ジョルジュ・ビゴー」の記事については、「ジョルジュ・ビゴー」の概要を参照ください。

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