来日初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:36 UTC 版)
「ヴィンチェンツォ・チマッティ」の記事における「来日初期」の解説
1926年2月8日に門司港に到着。2月16日宮崎で日本語の勉強を開始。一年後1927年2月よりサレジオ会がパリ外国宣教会より宮崎、大分、中津の三つの教会を受け継ぐ中で宮崎教会の主任司祭に着任。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立した。 1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立。同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させた(後の日向学院)。一方で東京への進出も果たし、三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校。「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部も同所に設置した。サレジオ短期大学の学長も歴任。 また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持するため、また発展させるために、1937年、邦人の修道女会「宮崎カリタス修道女会(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立を同サレジオ会員のアントニオ・カヴォリ神父と共に実現した。
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