音楽と後世に与えた影響とは? わかりやすく解説

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音楽と後世に与えた影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 18:40 UTC 版)

ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ」の記事における「音楽と後世に与えた影響」の解説

イタリア・ルネサンス時期音楽フランドル中心であり、ローマ教皇庁音楽隊にもフランドル音楽家を招くという状態であったが、パレストリーナイタリア人音楽家として大きな名声得た少なくとも100上のミサ曲250上のモテト初めとする数多く教会音楽作曲し中でも教皇マルチェルスのミサ曲」は彼の代表作とされている。 作品見られる順次進行主体とした簡素平穏緻密な合唱様式パレストリーナ様式称されている。パレストリーナ自身音楽理論書を遺したわけではないが、その様式は18世紀フックス教本以来厳格対位法模範であるとされている。 パレストリーナは、105曲のミサ曲68曲のオッフェルトリウム少なくとも140曲以上のマドリガル300曲以上のモテットなど、何百曲もの作品残した。さらに、少なくとも72曲の聖歌35曲のマニフィカート11曲の連祷、4(又は5)曲の哀歌存在している。あるマニフィカートの中の「グローリア」の旋律は、今日においても復活祭聖歌Victory (The Strife Is O'er)」として広く使用されている。 彼のマドリガル対す考えは、少々複雑であり、1584年出版したCanticum canticorum (英語で Song of Songs の意)というモテット集の序文においては世俗的な歌詞に曲を付けないとしているのに、そのたった二年後に世俗的マドリガル第二巻出版した(同曲集に入っているいくつかの曲は中期傑作である)。世俗的なテキストに曲を付けたマドリガル集は、最終的に1555年1586年出版された二冊が残されることとなった崇高なテキストに曲を付けたマドリガルの曲集も二冊残され、こちらは対抗宗教改革支持者らに好まれジャンルであったパレストリーナミサ曲には、彼の作曲様式長い年月をかけて発展してきた軌跡刻まれている。ミサ曲 Missa sine nomine はとりわけ大バッハ魅了したバッハロ短調ミサ曲作曲中に、この曲を研究して実演行った。ほとんどのミサ曲1554年から1601年の間に印刷され13巻本に収められており、出版されていなかった7曲はパレストリーナ没後出版された。 「教皇マルチェルスのミサ曲」は、パレストリーナの最も重要な作品一つである。6声部のために書かれ1565年6月19日に、カトリック教義における音楽位置づけ話し合うトレント公会議臨席教父らの面前歌われた曲と伝えられる。この曲は、トレント公会議まつわる事実異なストーリーに、歴史的に結び付けられてきた。ハンス・プフィッツナー歌劇パレストリーナ』も下敷きにしたことで有名なそのストーリーとは「このミサ曲は、トレント公会議面々に、宗教曲歌詞ポリフォニー適用することを厳しく禁じ必要がないことを訴えるために作曲されたものだ」というストーリーである。パレストリーナ改革され教義にうまく適合し簡潔なポリフォニー様式による宗教的な語法一例提供しようとした、と従来信じられてきた。また、パレストリーナが受け容れたトレント公会議により定められ改革とは、歌詞明瞭に聞き取れるように、また、テクストに密接に結びついた音楽となるようにするというものである。これは、会議カルロ・ボッロメーオヴィテロッツォ・ヴィテッリの両枢機卿教皇教会地位調整するために再び会った際にそのように望んだとされるしかしながら近年の研究者により、このミサ曲が実はポリフォニーへの制限議論するために会合を開くより前、おそらくは10年近く前に作曲されたことが証明されるようになったまた、トレント公会議史料によれば教会音楽実際に何か制限加えたり、この件に関して公式な見解規範作り行ったりはできなかったことが判明した上述ストーリーは、会議議題関与していない者に自分の考え話した会議出席者何人かおり、そのような出席者非公式見解から作り上げられたものであるこのような意見噂話は、何世紀もの間、フィクションの中で取り上げられ、紙に印刷され結果歴史的事実として誤って人口に膾炙してしまった。パレストリーナ自身作曲意図不明であるが、彼が歌詞明瞭に聞き取れ必要性について気になっていた可能性はある。しかしながら、これは対抗宗教改革方針従おうしたものではない。なぜなら、そのような方針存在しないからである。パレストリーナ特徴的な様式1560年代から彼が亡くなるまで、首尾一貫している。Roche (1970)は、感情ほとばしらせるような内容テキストに対しても、パレストリーナ冷静な曲作りをするのは、彼が多く注文こなしていた結果か、若しくは激し感情表現教会音楽ふさわしくないという慎重な考えのもとになされた結果であるという仮説提示するが、確かめられていない19世紀には、ヴィクトル・ユーゴーや、ある種ロマン主義者が、この時代作家にはつきもの大げさ表現で、パレストリーナは、キリスト教音楽全体とは言えなくても、カトリック音楽全体の父であると書いた。20世紀初頭には、ヴァチカン1903年発したmotu proprioにより、パレストリーナ作品宗教音楽作品規範とすることが望ましいとされた。多く音楽家が、ヴァチカン意図若しくはこの発令)が作曲家のロレンツォ・ペロージ(フランス語版)の考え取り入れて決められたものだと思った。しかし論理的に考えると、この発令は、グレゴリオ聖歌カトリック教会の中で歌われるべきものであると言っているものであったパレストリーナは、同時代の他の多く作曲家がそうであったように、グレゴリオ聖歌旋律線(トゥヌール(フランス語版)、例えば「定旋律」)を、多く音楽作品基礎用いていた。ミサにおける旋律模倣繰り返すことが、時代習わしだった。つまり、旋律模倣によりモテットないしモテット部分作り上げて行くということであって、ある一つ旋律作るという意味ではない。 パレストリーナ音楽入念に作り上げたとわかる証拠一つは、不協和音がなるべく弱拍現れるように設計されていることである。この工夫により音楽流れ良くなっており、また、21世紀現在ではルネッサンス期音楽絶対的な特徴であると考えられているポリフォニーにおける協和音類型増加させることに成功している。また、このことによって、ラッススと共にジョスカン・デ・プレに続くヨーロッパ代表的な作曲家としての地位得たこんにちでは、大学ルネッサンス期対位法講義する際には、「パレストリーナ様式」が基本として扱われるが、これは18世紀作曲家理論家ヨハン・ヨーゼフ・フックス努力帰すところが多い。フックス1725年に『パルナッソス山への階梯』と題した教科書著しパレストリーナ作曲技法理論化した。フックスは「対位法の種類species counterpoint)」という用語を用い、この教科書で、生徒厳格な規則則りながら、より多く声部組み合わさる課題段階的に取り組め一連の階梯課したフックス多く様式上の誤り犯しているが、後代理論家(Knud JeppesenやR._O._Morris)により訂正された。パレストリーナ自身音楽は、フックス言語化した規則通りとなっている箇所たしかに膨大であるが、そのような規則から自由に離れている部分同じくらいに多い。

※この「音楽と後世に与えた影響」の解説は、「ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ」の解説の一部です。
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