音楽と文学社のころ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 19:20 UTC 版)
1915年(大正4年)2月、『現代英国劇作家』を洛陽堂から上梓、同年5月、松本合資会社改メ合資会社山野楽器店(現在の山野楽器)店主の山野政太郎から「作曲家の評伝のようなもの」を書かないかと勧められ、ロンドン時代に集めた資料や情報をもとに『バッハよりシェーンベルヒ』を刊行した。同書で、日本では知られていなかった多くの作曲家を紹介した。Mozart(モーツァルト)⇒「モツアルト」、Rossini(ロッシーニ)⇒「ロシニ」、Saint-Saëns(サン=サーンス)⇒「サン、サーン」、Fauré(フォーレ)⇒「フヲーレー」、Debussy(ドビュッシー)⇒「デビユッシイ」、Rachmaninoff(ラフマニノフ)⇒「ラハマニノフ」等、作曲家の発音表記は現在一般的ではない表記が目につくが、現在と同様の表記の方が多い。 作曲家を紹介した本は量と質でそれまでの書物の群を抜き、発行部数は少ないものの大田黒の名を一躍高からしめた。同書一冊の価格が1円50銭、同書の印税は40円であった。 「ドビュッシーを日本で初めて紹介した」とされることが多いが、同書刊行以前に、『星の王子様』の邦訳で知られる内藤濯が、1908年(明治41年)に「印象主義の学才」というエッセイを雑誌『音楽界』(1908年9月号、楽会社)に、永井荷風が「西洋音楽最近の傾向」を『早稲田文学』(1908年10月)で紹介している。大田黒は「デビュッシィ」と表記していたが、永井荷風は1908年の時点で既に「ドビュツシー」と表記している。 ただし、演奏会でまとまった作品を演奏したのは大田黒らであるとは言えるであろうし[要出典]、数度にわたって評伝やドビュッシーの音楽論集を刊行しており、日本で最初にドビュッシーの評伝らしい評伝を書いた最初の人物であるとは言えるであろう[要出典]。 「日本で最初の音楽評論家である」といわれているが、これも客観的にそう断じるのは容易ではない[要出典]。吉田秀和の随筆集『響きと鏡』の中には、吉田が園遊会のような席で、大田黒のことを英語で「日本で最初の音楽批評家」と紹介している場面が出てくる。 1916年(大正5年)から1919年(大正8年)まで、堀内敬三や小林愛雄、野村光一と共に進歩的な同人誌『音楽と文学』を刊行、「音楽と文学社」を設立し、同誌の中心人物として活躍した。月1回自邸で音楽の集いを開き、自らピアノを演奏し、スクリャービンやドビュッシーなど当時最先端だった近代音楽の紹介普及に尽力。この間、1918年(大正7年)に声楽家の広田ちづえと結婚している。同年来日したセルゲイ・プロコフィエフを厚く持てなした。 1921年(大正10年)11月から二度目の外遊に出発するまでに、少なくとも18冊の著書と2冊の訳書を上梓している。1923年(大正12年)3月に日本へ帰国。潤沢な資産を背景に、長谷川巳之吉の第一書房を資金援助し、同社の『近代劇全集』が大赤字となった際には、当時の金で7万円という大金を出資したこともある。1940年(昭和15年)版の『日本紳士録』によると、当時大田黒が収めた所得税は1万4,086円であり、これは1996年(平成8年)の貨幣価値で約3,000万円に相当する。
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