音楽と格闘技との出会い
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「イアン・ブラウン」の記事における「音楽と格闘技との出会い」の解説
ティンパーリーに引っ越した後音楽の影響を受けるようになったと言い「ばあちゃんから7インチのシングル盤を山ほどもらったんだ。トム・ジョーンズの『イッツ・ノット・アンユージュアル』、ビートルズの『ヘルプ!』と『アイ・フィール・ファイン』それからストーンズの『アンダー・マイ・サム』と『ゲット・オフ・オブ・マイ・クラウド』、スプリームスの『ザ・ハプニング』と『ラブ・チャイルド』もあったな。あれが初めて手にしたレコードで、今も持ってるよ。俺は7,8歳で、ダンセット社製のポータブルプレイヤーを持ってたんだ。」 「子供の頃は、北部では誰でもビートルズに夢中で、俺も同じだった。次にT・レックスの『メタル・グル―』を聴いたんだけど、あれが地元のマーケットで買った初めてのシングルだったな。9歳になると、ギャリ―・グリッターが好きになった。『ロックンロール・パート1』は素晴らしい曲だよ。今でもスレイドは偉大なバンドだと思ってるし、ノディ・ホルダーはイギリスが生んだ最高のシンガーの一人だよ。ジョン・レノンみたいな歌声で、荒々しく、おそろしく力いっぱい歌うんだ」「アリス・クーパーも好きだった。1976年のクリスマスに彼の『ビリオン・ダラー・ベイビーズ』をもらって聴くまでは、実はアルバムとは何なのかもよく分かってなかった。それまではシングルがすべてだったんだよ。お袋は『サウス・パシフィック』のサントラ盤とペリー・コモのアルバムを持ってた。俺がアリス・クーパーの『スクールズ・アウト』に夢中になったのは12歳の時。それからセックス・ピストルズが起こしたビル・グランディ事件が新聞に載って、パンクが好きになった。アルバムも買ったよ。1977年3月にはピカデリー・ラジオで流れたアドヴァーツを聴いてシングルの『ワンコード・ワンダーズ』を買った。ピカデリー・ラジオはクラッシュの『キャリア・オポチュニティーズ』と『ジェニー・ジョーンズ』も流してたな。ラジオだと曲の途中までしか流れないけど、それをカセットテープに録ってね。ちょうどクラッシュがアルバムをリリースする時だったから、ラジオで曲を宣伝していたんだ」と語っている。 また格闘技にものめりこみ始め「子供の頃のアイドルと言えば、モハメド・アリに尽きる。1974年のジョージ・フォアマン戦は今でもはっきり覚えてるし、本も全部買ったよ。部屋の壁はアリの写真で埋め尽くされてた。まあ、その後、ピストルズの写真に代わるんだけど」。学校が終わると自転車で4マイル離れた空手の道場に通うようになり、曰く「空手は本当に好きだった。11の時に初めて18歳まで続けたよ。沖縄県警が採用する武人会を選んだんだけど、まあ、病みつきになったね。毎日練習して、14の時には教えていた。毎週土曜日は稽古をつけるんだ。茶帯になって、黒帯になる数週間前にブルース・リーの本を読んでたら、『俺の段位を決めるこの人たちはいったい誰なんだ?』って文があって、この言葉には考えさせられたよ。子供の頃、彼は学校で一番賢くて、それはそれですごかったけど、心に決めてた事があった。基礎から学ぶんじゃなくて、空手も言われたとおりにはしなかったんだ。俺自身にもそういう考え方に陥った事があって、これはどこかパンクに通じてる気がする。結局、彼は白帯で終わったんだけど、そうした姿勢を彼から学んでたんだと思う。それで俺も最終的には道場を去ったんだから。後悔してるよ、馬鹿な事をしたって。だけど1978年の当時はパンクロックに夢中だったから。黒帯になれてたら、どんなにすごかっただろう。毎晩のように練習してたし、放課後も一対一で教えてもらってたし」、
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