逃亡先での活動
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「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事における「逃亡先での活動」の解説
「ディミトロフをめぐる戦い」と呼ばれたドイツ国会議事堂放火事件裁判では、最も信頼できる仲間のオットー・カッツが実務と捜査の調整を行い、勝訴に導いた。この事件に関し、国際的注目を集めた記者会見で『褐色の書』 (Braunbuch 1933) を1933年8月1日に発表した。ドイツ国会議事堂放火事件の裁判は1933年9月21日に開廷された。この本は、最初に「Livre Brun sur l’incendie du Reichstag et le terreur hitlerìenne」と言う題名でカルフール出版から最初にパリで出版され、後にイギリス労働党党員のロード・マーリーの前書きを載せて『ドイツ国会議事堂放火とヒトラーの恐怖政治についての褐色の書』 (de)との題名で発行された。編集長は、アルベルト・ノルデンと共同でアレクサンダー・アブシュが勤めた。書籍出版社は、独コミンテルンメンバーのミュンツェンベルクが設立した。この出版社からは、エゴン・エルヴィン・キシュの『進入禁止』(Eintritt verboten)などが出版されている。褐色の書著者の事務所への入り口は、協力者に無条件で開かれていた。ミュンツェンベルクは、来訪者をまず部下に尋問させる他の運動員の様なスパイへの恐怖を知らなかった。 1934年中盤の国家社会主義者による粛清の後、ミュンツェンベルクは、突撃隊幕僚長エルンスト・レームの蜂起疑惑(長いナイフの夜)に対し青書(de)の中から、ドイツ帝国大統領ヒンデンブルクへの野党からの提言が記載されている数ページを印刷させ、ヒトラー政府の権力を大統領官邸に移譲する事を要請した。この青書は、実際は『7月30日の銃撃に関する白書』 (de)の再版であった。偽装の為にライプツィヒの出版社の英文法という体裁をとっていた。 ミュンツェンベルク他、クララ・ツェトキン、アンリ・バルビュス、ジョン・ドス・パソスなど多くの知識人達の主導で、ドイツ救援委員会が国際労働者救援会中央委員会に設立された。設立目的は、ファシズム犠牲者追悼とドイツの労働者階級の革命運動と政治運動の主旨として、公共の福祉と示威運動の組織と運営であった。これらは、国際労働者救援会(IAH)設立以来から使っている宣伝方法で、人道的な目的とは殆ど関係ない「救護会」の細胞を企業内に植えつける方法であった。 さらに彼により完成された宣伝方法の一つは、マネス・シュペルバーにより「記名スタンプ」(Unterschriften-Stampiglie) と呼ばれている。詩人、芸術家、聖職者、哲学者、学者は自らの署名を以て、革新的闘士として最前線に立つ事を承認した。ミュンツェンベルクは、彼の指揮でどうとでも動く知識人の一団を集めており、彼の同僚によって広められた提案には、署名者の明示的な同意なしに使用された記名が記載されていた。 彼らを協力者として確実に引き入れる為に、彼は以下の様に説得した。 「その人物が、重大で困難な闘いに必要とされていることを説得する。その人物が、人命を救う良い活動の権威として必要であり、増大する危険にも関わらず平和と自由の為に混沌に立ち向かう闘士であり、無関心な者の目を覚まさせる必要があり、その呼び掛けが一般的に地位や名誉のある人から出ていれば、躊躇している人も動かされるであろう事を説明する」。 ただし、ミュンツェンベルクは革命運動の重要性を以下の様に認識していたという。ポール・エミール・プドロー将軍のアメリカへの旅費に3000ドルを問題なく用立てしたが、彼の仲間がナチスの焚書1周年の集会への支持を要請した際には、「300フランク(約12 USD)、それ以上は問題外だ」と答えた。その返答に失望した同士は、それでも以下の様な記述を残している。 「彼(ミュンツェンベルク)は偉大なる扇動家ではあったが、実務家ではなかった。彼はその方法に於いて、私の知っている限り、最も優れた人物であった。もとい、クルト(フンク=ヴェーナー)を除いてだ。」 ミュンツェンベルクは、比較的早く国家社会主義に対する抵抗運動への同盟を扇動し始めた。1935年9月には51名の共産主義的、社会民主的、市民的なヒトラー反対者を集めた。このドイツの人民戦線は、その会合場所からルテティア・サークルとして有名であった。ミュンツェンベルクの活動はナチス政権にとって不都合であった為、その年の内に欠席裁判で死刑を宣告されている。 人民戦線を組織して以来、ミュンツェンベルクの活動は活発化し、次々に国際会議や会合、委員会などを立ち上げた。その中には後年のストックホルム・アピールの前身となる「戦争とファシズムに反対するアムステルダム平和委員会」もあった。コミンテルン西ヨーロッパ扇動・宣伝部トップとしてミュンツェンベルクは正統スペイン政府の為に宣伝戦を行った。ここでも「共和国スペイン救援委員会」、「スペインミルク基金」など「ナチ犠牲者救護委員会」を範にして、政治目的の為に公益非営利組織を隠れ蓑にした委員会を次々と立ち上げている。スペイン内政非介入違反調査委員会がドイツ国会議事堂放火事件原因究明委員会の後に設置された。前者はドイツ国会議事堂放火事件対抗裁判を模範としている。 1938年には雑誌「未来」 (Die Zukunft) をアーサー・ケストラーと共に創刊。友人であるハインリヒ・マンは1938年末に初刊に寄稿している。1939年3月の「未来」10号では、「全てを統一の為に」という記事の中で、ヴィリー・ミュンツェンベルク自らファシズムに対する更なる統一戦線組織に賛成を表明している。この雑誌では、リオン・フォイヒトヴァンガー、オスカー・マリア・グラフ、アルフレート・デーブリーン、トーマス・マンも働いていた。
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