逃亡兵の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 17:44 UTC 版)
「ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)」の記事における「逃亡兵の処刑」の解説
1945年4月初旬、ノイシュトレーリッツ地方を統括するドイツ国防軍の参謀グループが最前線より後方の防衛線の視察を行ったが、その際に彼らは「シャルルマーニュ」師団(連隊)のフランス人将兵に対し、防御施設や対戦車障害物の建設工事を始めるよう命じた。 しかし工事当日、対戦車壕を掘る作業の際に戦術学校隊員の1人エミール・ジラール武装伍長(W-Uscha. Émile Girard)は小隊長の命令に逆らい、これ以上従うことはできないとして作業を放棄した。その直後、ジラールは2月25日のエルゼナウの戦いで持ち場から逃げ出したことを(これまで何の処罰も行われていなかったため不問にされていたと思いきや、突如として)問責された。軍法会議にかけられたジラールは敵前逃亡の罪によって死刑が確定し、戦術学校はフランソワ・アポロ武装曹長が指揮を執る銃殺隊を提供した。そして1945年4月19日から20日にかけての夜、エミール・ジラール武装伍長はカルピン墓地において銃殺刑に処された。
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