認識論:理性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:07 UTC 版)
「オブジェクティビズム」の記事における「認識論:理性」の解説
ランドによれば、知覚を通じて与えられる以上の知識を獲得するためには、意志作用(volition、または自由意志の行使)と、明確な方法に厳密に従った立証の、両方が必要である。知識の立証は、観察、概念形成、および帰納的推論と演繹的推論の適用を通じて行われる。たとえば竜の存在をどれほど真摯に信じても、現実に竜が存在するということにはならない。ある主張された知識が真実であることを立証するには、その知識の根拠を現実の中に特定して証明する過程が必要である。 オブジェクティビズムの認識論は、「意識は識別(個体性の特定)である(consciousness is identification)」という原理から始まる。この原理は、形而上学における「実存は個体性である(existence is identity)」という原理の、直接的な帰結として理解される。ランドは理性(reason)を、「人間の感覚から提供される素材を識別し統合する機能(the faculty that identifies and integrates the material provided by man's senses)」と定義した。また、論理(logic)は、「個体性を正しく特定するために必要な意識の活動(actions of consciousness required to achieve a correct identification)」の「体系的な諸経路(systematic courses )」を概念化したものであるとした。 ランドによれば、意識(consciousness)は、他のすべての存在と同様、特定かつ有限の個体性(identity)を有する。したがって意識は、特定の立証(validation)方法によって機能(operate)しなければならない。ある知識を、特定の形式を持つ特定の過程によって得られたことをもって「否認(disqualify)」することはできない。それゆえランドにとって、「意識それ自体が個体性を持たなければならない」という事実は、意識の「限界」を根拠とする普遍的懐疑論(universal skepticism)が否定されることを意味するだけでなく、啓示や感情や信仰に基づく信念の正当性の主張が否定されることも意味した。 オブジェクティビズムの認識論においては、すべての知識は、究極的には知覚(perception)を基礎にしているとされる。ランドは、「所与(given)であり自明(self-evident)であるのは知覚対象(percepts)であり、感覚(sensations)ではない」と述べた。ランドは、感覚の妥当性を自明と見なした。「感覚の妥当性は自明でない」とする主張は、すべて「概念の妥当性を前提としていながら、その概念の妥当性自体が感覚の妥当性を前提としている」という「概念盗用(stolen concept)」の虚偽を犯していると主張した。ランドは、「生理学的な意味での知覚は誤りを犯せない」と考えた。たとえば錯視は、「視覚自体の誤り」ではなく、「視覚で捉えられた対象の概念的特定における誤り」である。したがって、感覚器を通じた知覚の妥当性は証明不可能であり(なぜなら証明とは感覚された証拠を挙げることに過ぎず、その妥当性はあらゆる証明の前提になっているから)、またその妥当性を否定するべきでもない(なぜならそのような否定をするために用いる概念的道具も、感覚器を通じて得られたデータから導くほかないから)のだから、知覚の誤りは不可能であるとした。以上の帰結として、ランドは認識論的懐疑主義を退けた。「知識は知覚の形式または手段によって歪められている」とする懐疑主義者の主張を、あり得ないとした。 オブジェクティビズムの知覚論においては、形式(form)と対象(object)が区別される。生命体が対象を知覚する形式は、その生命体の感覚器の生理学的構造によって決まる。どのような形式で知覚しようと、知覚される対象が現実であることに変わりはない。それゆえランドは、カント的な「経験」と「物自体」の二分法を否認した。ランドは、「人間の意識、特に抽象能力を攻撃する者たちは、『意識による“処理”によって得られた知識は、必然的に主観的なのであり、現実とは一致し得ない』という前提を、疑いもなく根拠にしてきた。だがおよそ知識というものは、感覚レベルであれ、知覚レベルであれ、概念レベルであれ、“処理”されているものなのである。もし“処理されていない知識”などというものがあるとすれば、それは“認識作用なしに得られた知識”ということになるだろう」と述べている。 認識論の中でランドが最も詳細に論じたのは、概念形成に関する理論である。ランドの概念形成論は、『オブジェクティビズム認識論入門』(Introduction to Objectivist Epistemology)に示されている。ランドは、概念は具体物からの「量の捨象」(measurement omission)過程を経て形成されると論じた。レナード・ピーコフは、ランドの見解を次のように説明している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}概念を形成するには、まず具体物(または明確な表象)の一群を、他の既知の具体物から区別されるそれらの類似性に基づき、頭の中で“隔離”する(なお類似性とは、同一の性質を異なる量または程度だけ持つ複数のもの同士の関係である)。次に、“隔離”した具体物が共有する性質の量または性質を捨象する過程を通じて、これらの具体物の一群を、新たな単一の認識単位に“統合”する。この認識単位が概念である。形成された概念は、同じ性質を持つすべての(潜在的には無限に存在する)具体物を包摂する。概念による統合は、その概念を指し示す記号(つまり言葉)を決めることで完結・維持される。「概念は、同じ性質を持つ複数のものを、その性質の量を捨象することで、頭脳において統合したものである」。 ランドによれば、「量を捨象する」とは、「量が存在しないと見なされる」ことではなく、「量が(存在するが)特定されない」ことである。量が存在しなければならないということは、この過程の本質的な一部である。「該当する性質は、“ある”量存在しなければならないが、“どんな”量存在してもよい」というのが根本原理である。 ランドは、概念は階層的に組織されていると論じた。たとえば知覚された具体物を一まとめにした「犬」という概念は、「ダックスフンド」、「プードル」といった概念に分解することも、「猫」等の概念とともに「動物」という概念に統合することもできる。「動物」のように抽象的な概念は、「抽象からの抽象」を通じ、さらに「生物」等の概念に統合できる。概念は、得られる知識の文脈で形成される。幼児は、犬を猫や鶏から区別する。しかし「犬」という概念を形成するために、犬を深海性チューブワーム等のまだ知らない動物から明確に区別する必要はないのである。 オブジェクティビズムにおいては、概念は、過去から現在までの定義からの拡張が可能な「オープンエンドな」分類と見なされる。それゆえオブジェクティビズムにおいては、分析/総合の二分法は否認される。また、アプリオリな知識の存在も否定される。 ランドは、感情が知識の獲得手段になることを否定した。ランドは感情が人間にとって重要であることは認めたが、感情は人が意識または潜在意識ですでに受け入れた観念の結果であり、現実の認識に到達する手段にはならないと主張した。またランドは、あらゆる形式の信仰や神秘主義を否定した。信仰と神秘主義を、ランドはほぼ同義語として扱った。ランドは信仰を「自分の感覚と理性が証拠に立脚せず、もしくは反して、ある主張を証拠も証明もなしに受け入れること」と定義し、神秘主義を「“本能”、“直観”、“啓示”、あるいは“ただわかる”といった、感覚・理性に基づかず、定義も特定も不可能な認識手段の正当性を主張すること」と定義した。ランドにとって信仰は、“知識へのショートカット”ではなく“知識への回路のショート”であった。 「人間の知識が制約されていること」、「人間が誤謬を犯すこと」、「知識が含意することのすべてを即座に理解できるわけではないこと」を、オブジェクティビズムの認識論は認める。ピーコフは、ある命題が真であることをすべての入手可能な証拠が証明しているなら、すなわち、ある命題が自分の他の知識と論理的に整合し、証拠が示す限りにおいてその命題が真であることを確信できるなら、人はその命題が真であることを確信してよいとした。 ランドは、理性主義と経験主義の伝統的な二分法を、「概念に立脚し知覚に依存しない知識」と「知覚に立脚し概念に依存しない知識」の誤った二者択一の具現化として退けた。ランドは、知識の素材は感覚によって提供される一方、認識可能な命題を立てるには概念による処理が必要なのだから、これらはいずれも不可能であると主張した。
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