装弾・用品事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 23:23 UTC 版)
「K.F.C. (散弾銃)」の記事における「装弾・用品事業」の解説
明治時代より村田式猟銃などの真鍮薬莢・黒色火薬を用いる銃器を販売していたK.F.C.は、口巻器(ロールクリンパー)、口締器、雷管詰替器、フェルトワッズ(送り)(英語版)などの手詰装弾(ハンドロード)用品や、負革(英語版)や装弾ベルト(英語版)などの狩猟用品、狩猟・射撃用ベストやハンチング帽などの衣類、洗矢(英語版)などの銃器の手入れ(英語版)用品などを欧米から輸入していたが、昭和30年代中盤にはこれらの殆どを国産化しており、鼓型空気銃弾などの空気銃用品もK.F.C.・アサヒブランドで販売が行われた。 村田式猟銃に用いられる真鍮薬莢は、昭和20年(1945年)の敗戦までは帝國陸軍造兵廠からの器材の払い下げにより設立された帝国薬莢株式会社(TYK)より供給を受けていたが、戦後は昭和25年(1950年)より日邦工業(NPK)、昭和32年(1957年)には旭精機工業(旧・旭大隈工業、AOA)がそれぞれ参入し、真鍮薬莢の供給を引き継いでいた。 黒色火薬や無煙火薬、銃用雷管は昭和12年(1937年)の支那事変(日中戦争)勃発までは東京第二陸軍造兵廠(板橋火工廠)などが製造するものが販売されていたが、同年以降は日本化薬や日本油脂(昭和金属工業)などが製造するものが供給されるようになった。特に日本油脂が昭和18年(1943年)以降供給したツバサ印無煙火薬は同社の猟用黒色火薬と並び、大戦末期から終戦直後の市井の狩猟家が入手可能な唯一のものであった。 このような背景の中、K.F.C.の装弾事業に最も強い協力を行ったのが昭和33年(1958年)より紙製薬莢の製造を開始していた旭精機であった。旭精機は紙製薬莢の発売と同時にK.F.C.と共同で機械詰装弾(ファクトリーロード)の研究開発を開始し、2年後の昭和35年(1960年)に国産初の紙製機械詰装弾であるAOA エキストラ(射撃用)及びAOA ヒットマスター(狩猟用)が発売され、昭和39年(1964年)までにはトラップ射撃用強装弾のAOA エキストラスーパー、スラッグ装弾のAOA ピューマロケットもラインナップに加わった。 日邦工業も昭和38年(1963年)に紙製機械詰装弾(NPK ダイヒット、NPK マーキュリー)に参入。昭和43年(1968年)には日本油脂及び米レミントンと共同開発する形で国産初の樹脂製(英語版)機械詰装弾を発売、SKB工業も旭化成と三井物産との三社提携で旭SKB株式会社を設立して樹脂製機械詰装弾への参入を伺う状況の中、これらに対抗すべくK.F.C.と旭精機は樹脂製機械詰装弾の生産を専門とする新会社である東京カートリッジ株式会社を同年中に共同設立した。東京カートリッジはベルギーのニュー・ラショウセイ社から製造設備を購入する形で生産体制が整備され、その生産能力は月産で最大100万発に達するものであった。同社製の樹脂製散弾実包は全てK.F.C.ブランドを冠し、AOAブランドの紙製散弾実包と共にK.F.C.の販売網で販売された。K.F.C. エキストラ及びK.F.C. ヒットマスターの年間出荷弾数は、昭和41年(1966年)時点で1000万発を越えていたという。 昭和46年(1971年)にダイセルが米オリン・コーポレーション(英語版)との技術提携という形で設立した日本装弾株式会社(現・ダイセルパイロテクニクス)等の同業他社が、既に海外で樹脂製散弾実包の製造実績のある海外メーカーからの直接の技術移転により、海外メーカーのライセンス生産という形で散弾実包を国内製造していたのに対して、東京カートリッジ製のK.F.C.装弾は原則として国内で独自の技術開発が行われていた。 K.F.C.は樹脂製散弾実包発売の3年前の昭和40年(1965年)には独自の樹脂製カップワッズを開発し、旭精機が製造していたK.F.C.装弾にK.F.C. セットワッズという名称で全面採用していた。この樹脂製ワッズは散弾と火薬が装填されるカップ部分と衝撃を吸収するクッション部分が独立した構造で、日邦工業が採用していたレミントン型や日本装弾が採用していたウィンチェスター型のカップとクッションが一体となった形状のワッズと比較して製造コストが嵩む反面、カップ内に挿入されたクッションが射撃と同時に縮む事でカップの容積が増大し、カップ全体に全ての散弾(英語版)が確実に保持される事から、銃腔が汚れにくく散開パターンもより安定したものが得られるという利点があった。 K.F.C.はスラッグ弾(英語版)の開発でも特筆に値する足跡を残している。K.F.C.は戦前はドイツ製のシュテンドバッハ・アイデアル鼓型弾頭を輸入販売し、戦後は独自のフォスター型ライフルドスラッグ(ロシア語版)であるK.F.C. ロケット実弾を製造販売。紙製機械詰装弾発売以降はK.F.C. ピューマロケット装弾として販売が行われていたが、昭和45年(1970年)に自社のロケット弾の命中精度を更に高める目的で、樹脂製クッションワッズを組み合わせた新型のスラッグ弾の開発を行った。この時開発された樹脂製クッションワッズは特許資料内では尾翼ワッズと呼称されており、薬莢に装填される際にはロケット弾と尾翼ワッズはそれぞれ独立した部材であるが、発射の圧力で尾翼ワッズが圧縮されると反動を吸収すると同時に、ロケット実弾の後端の孔に尾翼ワッズの突起が差し込まれてロケット弾と尾翼ワッズが一体化した構造になって飛翔するというもので、スラッグ弾頭の後部に凧の尾となるワッズを取り付けて飛翔を安定させる概念自体はドイツのブリネッキスラッグ(ロシア語版)で既に確立されたものであったが、独ブレネケ(英語版)社が自社のブリネッキスラッグに樹脂製ワッズの採用を始めるのは、K.F.C.による特許取得の5年後の昭和50年(1975年)以降であり、K.F.C.の特許内に含まれている数種類の尾翼ワッズのうち「細長い棒状の尾翼ワッズ」に相当する構造の採用は、昭和60年(1985年)のロットウェル(英語版)製410番マグナム・スラッグが初出で、12番など大口径スラッグ弾にまでこの構造の採用が広まりプラムバタ(英語版)スラッグとして定着したのは、平成18年(2006年)にブレネケ社がブリネッキスラッグの発展型として特許取得して以降の事である。
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