表参道周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:27 UTC 版)
江の島アイランドスパ(えのすぱ) - 江ノ島弁天橋を渡って右手の旧二見館跡に2004年12月15日にオープンした天然温泉&スパ施設。温泉、プール、スパ施設の3部門がある。 青銅の鳥居 - 延享4年(1747年)に創建され、文政4年(1821年)に改修されて現在に至る。市指定文化財(建造物)。ここから地元で宿道と呼ぶだらだら上りの参道になる。両側には旅館、飲食店、土産物店が軒を連ね、かつてはしつこいほどの呼び込みの声が飛び交っていたが、今は自粛している。1998年のかながわゆめ国体準備のために前年拡幅整備が行われた。 堀江商店 - 江戸時代より「繪圖屋」の屋号で営業していた。文化5年(1808年)に「江嶋一望圖」という絵地図を制作している。 惠比壽屋旅館 - 慶長年間創業の老舗旅館。「島に弁天、旅館は惠比壽」のキャッチコピーで知られる料理自慢の宿。明治期の主人は泉山という俳号を持ち、島内の俳諧仲間の指導者だった。旅館の門内と参道女坂には門人が建てた句碑が残る。 井上総本舗 - 「女夫饅頭」「貝もなか」で知られる和菓子店 江ノ島郵便局 - 昭和初期に風景印を作り、宿泊客に人気だった。明治5年(1872年)東京府下に郵便取扱所を開設するにあたり設置した黒塗柱書状箱を復元したポストが入口脇に立っている。 紀乃国屋本店 - 「女夫饅頭」「江の島もなか」で知られる老舗和菓子店 ハルミ食堂 - 江ノ島丼を創始した飲食店。 岩本楼本館 - 金亀山与願寺最大の宿坊で、「岩本坊」「岩本院」または「江嶋寺」とも呼ばれていた。明治以来一般旅館となったが、江の島を代表する存在である。館内には古文書や秘蔵の品々を多彩に展示する岩本楼資料館を設け、ステンドグラスが美しい王朝風岩本楼ローマ風呂は国の登録有形文化財である。 歌舞伎「白浪五人男」の一人弁天小僧菊之助は、岩本院の稚児上がりという設定になっている。岩本院が江戸市民に周知されていたからと推定される。 渡邊本店 - 貝細工の老舗。片瀬に製造部門の渡辺貝細工がある。 朱塗りの大鳥居 - 参道の突き当たり。現在の鳥居は1936年(昭和11年)10月に東京麹町三番町の林やす子・林敏子が寄進したもの。 長堀検校寄進の狛犬 - 朱塗りの大鳥居の脇に設置された大型の狛犬。1865年(慶応元年)に杉山検校の後輩に当たる長堀検校らが寄進したもの。 男坂 - 朱塗りの大鳥居をくぐって正面の幅広い階段が江島神社の表参道である。瑞心門の先で右折し、福石の所で左折して辺津宮に到る。相当急なので「男坂」と呼ぶ。 瑞心門 - 龍宮城を模して1986年(昭和61年)造営された神門で、その両袖には鮮やかな色彩にて唐獅子画や牡丹の天井画が描かれている。弁財天像 - 2002年(平成14年)江島神社鎮座1450年を記念して建てられた。 百度供養碑 - 宝暦11年(1761年)から36年間で百度詣りが結願したことの記念に寛政8年(1796年)江戸下谷住時田三天明昭が建立。弁才天の種子である「सु(ソ)」と「ゆくとしや百度詣でし豆の数」 永代祭礼講碑 - 1898年(明治31年)藤沢のほか腰越津村、俣野村、六会村、明治村、深沢村、長尾村ほかの永代祭礼講の講中の名が刻まれている。 福石 - 杉山和一が参篭して、結願の日の帰途に、この石に躓き倒れ、松葉の入っている竹の管を拾って、しかもこの石の上に弁財天女の影向を拝み、管鍼(くたばり)の術を授けられたと伝える石。彼はこの術で、時の将軍綱吉の持病を癒して、遂に総検校の職を得たといわれている。それからこの石の傍で物を拾えば必ず福運を授かるということから福石と名付けられた。福石の脇には現在江の島弁才天道標(市指定文化財)の一つが立っている。これはもともとここにあったものではなく、島外から移設されたと思われる。 女坂 - 江の島駐在所脇から右へバイクの走れる簡易舗装の道を進み、江の島市民の家の先で細い石段を上る。 裏参道(裏道) - 上記バイクの走れる簡易舗装の道は、東山の北西側の中腹をほぼ水平に曲がりくねりながら山二つの中村屋本店裏手に達する。途中、木の間越しに見る湘南海岸公園や富士・丹沢方面の展望のほか、照葉樹林の観察にも向いている。西山(江の島二丁目)の住民にとっては重要な生活道路である。 江の島市民の家 - 1884年(明治17年)に開設され、1961年(昭和36年)に閉校になった藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校跡の施設を活用して1978年(昭和53年)に開設された市民活動の拠点。分校には1 - 4年生が通学し、5年生になると本校に通ったという。本校までは子供の足で1時間近くかかり、長い桟橋を渡って行くのだから、毎日の通学は大変だった。閉校の理由は江ノ島大橋の完成により、定期バスが通うようになったことと、人口減が予想されたことによると思われる。因みに島の人口は1955年(昭和30年)の1324人をピークに減少を続け、現在[いつ?]はピーク時の3分の1程度であり、これは江戸時代の人口より少ない。 杉山検校の墓 - 市民の家の先を右手に降った「西浦霊園墓地」にある笠塔婆型墓石。市指定史跡。関東総検校杉山和一は、元禄7年5月18日(1694年6月10日))に病臥し、6月26日に没した。享年85。遺言により命日は病臥した5月18日となっている。杉山検校の墓は墨田区立川にある真言宗豊山派の弥勒寺にもあり、東京都指定旧跡となっている。
※この「表参道周辺」の解説は、「江の島」の解説の一部です。
「表参道周辺」を含む「江の島」の記事については、「江の島」の概要を参照ください。
- 表参道周辺のページへのリンク