私闘としての決闘
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このように、正式な制度としての決闘裁判は15世紀までに廃れたが、15世紀末頃からフランスで個人間の私闘である「名誉のための決闘」が生まれるようになり、16世紀以降にはこうした決闘が厳格な規則を基にして発達していく。1610年に書かれたジョン・セルデンの『決闘あるいは一対一の闘い』には「公言された嘘、咎められた名誉、肉体に与えられた理不尽な打撃、不当に扱われた騎士道精神にたいし、義侠の行為をもって真実、名誉、自由を守るために、判決の試合場ではなく、一対一の個人的な争いにより相手の肉体にその悪の報いを与える習慣は、フランス人、イギリス人、ブルゴーニュ人、イタリア人、ゲルマン人、及び北方諸族の間に広がっていった」とある。 名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた。農民や商人が決闘をやることはほとんどなく、身分が異なる者の間で行われることもほぼない。紳士が紳士のルールに則って行うのが決闘である。自身の名誉が傷つけられた場合だけではなく、自分の愛する女性の名誉が傷つけられた場合も相手に決闘を挑むのは当然と考えられた。 ヨーロッパ各国の王はたびたび決闘禁止令を出したが決闘が絶えることはなかった。たとえばフランス王アンリ4世は決闘を禁じる勅令をいくつか出しているが、ほぼ効果がなく、王の在位中の16世紀末から17世紀初頭の20年にかけて決闘による犠牲者数は4000人を下らなかったという。ルイ13世時代の1627年にはブートヴィル伯フランシス・ド・モンモランシー(フランス語版)が決闘を行ったことで処刑されているが、この件に貴族からも市民からも怒りが巻き起こり、それはアンシャンレジームを崩壊させかけるほどの勢いを示した。決闘は上流階級の文化であり、一般市民にとってはほぼ無縁の世界の話だが、上流階級が見せる「見世物」「フェアな闘い」として市民からも広く愛されていた。決闘者が重罪に処されるのは極めて稀だった。裁判官は決闘に極めて寛大であり、そもそも裁判官たち自身が決闘に及ぶことも多かった。裁判官たちも紳士に属する階級だからである。 イングランドではピューリタン(清教徒)が決闘を反ピューリタン的行為として嫌う傾向があった。そのためピューリタン革命後の共和政時代にはオリバー・クロムウェルによって決闘は厳しく規制された。しかし1660年の王政復古後に決闘は再び盛り返した。チャールズ2世が亡命先だったフランスの思想や習慣を盛んにイングランドに持ち込んだことがこれに拍車をかけた。 決闘の武器は18世紀末に至るまで長らく剣が使用され、中世期には鎧や鎖帷子を付けての決闘だったから両手で扱う重い剣が好まれたが、次第に片手で扱える軽い剣の方が機先を制するのに有利とされるようになり、16世紀後半になるとレイピアという細身の長剣での決闘が主流になり、装束も身軽に動ける物に変わっていく。フェンシングの技術が習得されるようになると技のスピードの競い合いになり、具足や受け止めるための左手の短剣も次第に使用されなくなる。17世紀末頃には長さ約30インチのフランベルジュという剣が決闘で主流の武器となった。 ピストルが剣に代わる決闘の武器として使用されるようになったのは18世紀中頃からで特にイギリスやアイルランドでピストルによる決闘が流行った。イギリスでは大陸諸国のようにフェンシングが若い頃からの一般的な習慣にならなかったので、剣ほどには技術による差が出にくいピストル決闘が流行したものと考えられる。19世紀に入った頃には剣術が廃れたのでフランスでもピストル決闘が主流になってくる。決闘用の銃にはライフル型のものもあったといわれるが、あまり広まってはいない。12歩から15歩ぐらいの間隔で行われることが多い決闘では必ずしも有用な武器ではなかったし、一般に決闘は相手を致命的に倒すことを目的としていないので、ピストルで十分だったのだと思われる。ピストルによる決闘は剣よりも静寂の神秘性が伴い、ライフリングの刻まれた拳銃ではなく旧式の見事な装飾が施された拳銃が用いられるのが一般的だった。1815年に登場したリボルバー以降の連発拳銃も19世紀後半のアメリカでは好まれたが、ヨーロッパの決闘ではあまり使用されなかった。 剣による決闘の時代は剣の達人や若くて元気な方が勝つのが目に見えていたため、高齢者や剣術の練習をあまりしていない人は多少の侮辱には耐えねばならない面があったが、ピストル(特にライフリングが施されていない物)は命中率が低く、体力もほとんど必要とならないので、ピストル時代には高齢者も容易に決闘が行えるようになり、決闘者の平均年齢は大きく上がったと言われる。 近代の決闘は死に至ることは少なかった。1836年にイギリスで出版された「旅人」(A TRAVELLER)著『決闘の技術(ART OF DUELLING)』によれば「決闘で生命を危険にさらすことは事実である。しかし危険率は大方が考えているよりははるかに少ない。人が死ぬ割合は約14分の1であり、弾丸が当たる率は約6分の1である」という。 決闘は19世紀半ばまで盛んに行われたが、19世紀後半になると徐々に廃れていく。この頃から決闘の法規制が強まったことがあるが、決闘の主役たる貴族や特権階級が没落しはじめたことも大きかった。しかし19世紀後半にも決闘は依然として行われていた。イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805の決闘を報道している。19世紀前半に多いものの、1890年にも28回もの決闘が報道された。 1914年から1918年にかけての第一次世界大戦はそれ以前の戦争など比較にならない規模の大量殺戮戦となり、ヨーロッパ各国は決闘文化に浸っている余裕など無くなった。同大戦後次の大戦までの戦間期にも決闘は伝統主義者たちによって維持されたが、決闘文化の衰退は止まらなかった。新聞紙上でも戦前は溢れんばかりに決闘の報道が行われていたのに戦後は死者が出たり、よほど特殊な決闘でない限りほとんど報道されなくなっている。 ただ決闘文化が完全に消え去ったわけではなく、フランスでは第二次世界大戦後の1958年に舞踏家セルジュ・リファールとクエバス侯爵(英語版)の決闘がマスコミのカメラに囲まれる中で行われている。
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