私闘としての決闘とは? わかりやすく解説

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私闘としての決闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 05:51 UTC 版)

「決闘」記事における「私闘としての決闘」の解説

このように正式な制度としての決闘裁判15世紀まで廃れたが、15世紀末頃からフランスで個人間の私闘である「名誉のための決闘」が生まれるようになり、16世紀以降はこうした決闘厳格な規則を基にして発達していく。1610年書かれジョン・セルデンの『決闘あるいは一対一闘い』には「公言された嘘、咎められた名誉、肉体与えられ理不尽な打撃不当に扱われ騎士道精神にたいし、義侠行為をもって真実、名誉、自由を守るために、判決試合場ではなく一対一個人的な争いにより相手肉体にその悪の報い与え習慣は、フランス人イギリス人ブルゴーニュ人、イタリア人ゲルマン人、及び北方諸族の間に広がっていった」とある。 名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた農民商人決闘やることはほとんどなく、身分異なる者の間で行われることもほぼない。紳士紳士ルール則って行うのが決闘である。自身の名誉が傷つけられ場合だけではなく自分愛す女性の名誉が傷つけられ場合相手決闘挑むのは当然と考えられた。 ヨーロッパ各国の王はたびたび決闘禁止令を出した決闘絶えことはなかった。たとえばフランス王アンリ4世決闘禁じ勅令いくつか出しているが、ほぼ効果がなく、王の在位中の16世紀末から17世紀初頭20年にかけて決闘による犠牲者数4000人を下らなかったという。ルイ13世時代1627年にはブートヴィル伯フランシス・ド・モンモランシー(フランス語版)が決闘行ったことで処刑されているが、この件に貴族からも市民からも怒り巻き起こり、それはアンシャンレジーム崩壊させかけるほどの勢い示した決闘上流階級文化であり、一般市民にとってはほぼ無縁世界の話だが、上流階級見せる「見世物」「フェア闘い」として市民からも広く愛されていた。決闘者重罪処されるのは極めて稀だった。裁判官決闘極めて寛大であり、そもそも裁判官たち自身決闘に及ぶことも多かった裁判官たちも紳士属す階級だからである。 イングランドではピューリタン清教徒)が決闘を反ピューリタン行為として嫌う傾向があった。そのためピューリタン革命後の共和政時代にはオリバー・クロムウェルによって決闘厳しく規制された。しかし1660年王政復古後決闘は再び盛り返したチャールズ2世亡命先だったフランス思想習慣盛んにイングランド持ち込んだことがこれに拍車をかけた。 決闘武器18世紀末に至るまで長らく剣が使用され中世期には鎧や鎖帷子付けて決闘だったから両手で扱う重い剣が好まれたが、次第片手扱える軽い剣の方が機先を制するのに有利とされるようになり、16世紀後半になるとレイピアという細身長剣での決闘主流になり、装束身軽に動ける物に変わっていく。フェンシング技術習得されるうになると技のスピード競い合いになり、具足受け止めるための左手短剣次第使用されなくなる。17世紀末頃には長さ30インチフランベルジュという剣が決闘主流武器となったピストルが剣に代わる決闘武器として使用されるようになったのは18世紀中頃からで特にイギリスやアイルランドピストルによる決闘流行ったイギリスでは大陸諸国のようにフェンシング若い頃からの一般的な習慣にならなかったので、剣ほどには技術による差が出にくいピストル決闘流行したものと考えられる19世紀入った頃には剣術廃れたのでフランスでピストル決闘主流になってくる。決闘用の銃にはライフル型のものもあったといわれるが、あまり広まってはいない。12歩から15歩ぐらいの間隔行われることが多い決闘では必ずしも有用な武器ではなかったし、一般に決闘相手致命的に倒すことを目的としていないので、ピストル十分だったのだと思われるピストルによる決闘は剣よりも静寂神秘性伴いライフリング刻まれ拳銃ではなく旧式見事な装飾施され拳銃用いられるのが一般的だった1815年登場したリボルバー以降連発拳銃19世紀後半アメリカでは好まれたが、ヨーロッパ決闘ではあまり使用されなかった。 剣による決闘時代剣の達人若くて元気な方が勝つのが目に見えていたため、高齢者剣術練習をあまりしていない人は多少侮辱には耐えねばならない面があったが、ピストル(特にライフリング施されていない物)は命中率低く体力もほとんど必要とならないので、ピストル時代には高齢者容易に決闘が行えるようになり、決闘者平均年齢大きく上がったと言われる近代決闘死に至ることは少なかった1836年イギリス出版され「旅人」(A TRAVELLER)著『決闘技術ART OF DUELLING)』によれば決闘生命危険にさらすことは事実である。しかし危険率大方考えているよりははるかに少ない。人が死ぬ割合は約14分の1であり、弾丸が当たる率は約6分の1である」という。 決闘19世紀半ばまで盛んに行われたが、19世紀後半になると徐々に廃れていく。この頃から決闘法規制強まったことがあるが、決闘主役たる貴族特権階級没落しはじめたことも大きかった。しかし19世紀後半にも決闘依然として行われていた。イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805決闘報道している。19世紀前半に多いものの、1890年にも28回もの決闘報道された。 1914年から1918年にかけての第一次世界大戦それ以前戦争など比較ならない規模大量殺戮戦となり、ヨーロッパ各国決闘文化浸っている余裕など無くなった同大戦後次の大戦までの戦間期にも決闘伝統主義者たちによって維持されたが、決闘文化衰退は止まらなかった。新聞紙上で戦前溢れんばかり決闘報道が行われていたのに戦後死者出たり、よほど特殊な決闘でない限りほとんど報道されなくなっている。 ただ決闘文化が完全に消え去ったわけではなくフランスでは第二次世界大戦後1958年舞踏家セルジュ・リファールとクエバス侯爵英語版)の決闘マスコミカメラ囲まれる中で行われている。

※この「私闘としての決闘」の解説は、「決闘」の解説の一部です。
「私闘としての決闘」を含む「決闘」の記事については、「決闘」の概要を参照ください。

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