私鉄鉄道への対応
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鉄道経営が国営か私営かについて初めはそれほどこだわっておらず、明治3年に大隈から東京 - 大阪間の予算見積もりを命じられた前島密が著した『鉄道臆測』で、株式の発行によって私鉄経営の予算を調達する提案をした時はその予算編成を称賛、経営方針に対してはそれほど注意していなかった。また、明治15年2月の佐々木宛の建白書でも日本鉄道会社の長大な予定線を批判しつつも、設立自体は民間初の壮挙と歓迎している。 この見方が批判に変わり鉄道国有化の必要を唱えるのは明治16年3月、中山道ルート敷設主張の5ヶ月前に当たる時期に佐々木に提出した「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」であり、8項目にわたる私鉄の弊害を挙げたのである。民営鉄道の利益優先主義と競合は、他の会社との競争に熱中するあまり無駄な路線敷設が増加し国家の鉄道敷設の邪魔になる、予算膨張を恐れたり利益が赤字になる可能性があれば交通の便に必要な建設計画を実行せず、せっかく作った施設も放置して改良しない、会社の鉄道独占が国家の介入を阻む恐れがあるなど、新しい線路鉄道発展にマイナスとなるとする。加えて、国家の保護を受けない会社の将来性に期待出来ないため、鉄道国有化と私鉄批判を主張しだした。 明治19年から一種の投機熱が工業界で流行、私鉄が続々と設立される状況になると工事進捗と利益増が見込めるとして歓迎する一方、「鉄道工事は多額の資金が必要で事前の入念な準備も欠かせず、審査を経て確実な収入を見込んだ上で計画が実行されるべき」「にも関わらず、私鉄設立を考える者には簡単に稼げると思い込んだ安易な投資が多い」と無計画な設立と投資家の楽観を批判、万一私鉄が失敗して鉄道業界全体に世間の印象が悪化した場合を懸念している。また、小鉄道会社乱立により短い路線が増加しても利益が上がらず、長い路線を敷設して大鉄道会社の少数経営とし、貨物や旅客を運んだ方が効率が良いと主張、独占事業と非難する事業家達との溝が生じていった。ただ、勝がの批判の対象は見切り発車で動く事業計画についてであり、私鉄全体を否定しているわけではない。 地方からも敷設の声が相次ぎ、明治16年7月に福岡県令岸良俊介から佐々木へ宛てて、福岡の鉄道敷設のため下調べに工部省から官僚を派遣してほしいとの願書が提出された際、勝は地方利益誘導には鉄道が必要とする岸良の請願に応じ、私鉄が設立された時は許可しつつも、鉄道敷設と営業は政府が、資金提供は私鉄が分担する方針を上申した。これは日本鉄道会社との関わりと同じで、岸良に代わり福岡県令となった安場保和が伊藤宛ての明治19年6月の手紙で門司駅 - 熊本駅間の私鉄敷設を上申した時、勝の伊藤宛て意見書に同様の主張で役割分担した上で許可を出すべきと提案した。 私鉄認可の方針がこのように固まると、明治20年3月22日に伊藤に私設鉄道条例を上申、これが容れられ同年5月18日に公布され、日本鉄道会社と福岡県の例を参考に私鉄会社設立の条件および鉄道局長官の材料監査・工事監督が明文化され、無闇な私鉄計画停止ではなく、将来における利益が見込めるなら許可を与えることを重視した。この方針に従い勝は続々出願された私鉄路線の許可を下し、明治19年に水戸鉄道(小山駅 - 水戸駅)、両毛鉄道(小山 - 前橋駅)、甲武鉄道(新宿駅 - 八王子駅)、日光鉄道(宇都宮駅 - 今市駅 - 鹿沼駅)の区間を認可、山陽鉄道と九州鉄道の政府保護も受け入れている。一方、安易な地方利益誘導しか考えていない路線は却下している。
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