特殊な決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 05:51 UTC 版)
決闘は剣かピストルを武器とし、双方が介添人を用意し、朝日・日中の野原で行われることが多かったが、当事者の合意次第なのでこれ以外の特殊な形を取る場合もありえる。特殊な決闘は書面で合意を交わしておくことが求められた。 特殊な決闘で比較的多くみられるのは武器を使わず素手で闘うものである(一般には決闘と見做されないが)。トルコやコルシカでは頭突きによる勝負が流行した。武器の使用や殴る蹴るは禁止されていたが、相手が頭突き倒された後は止めを刺すために短剣を使用することが認められていた。 騎士道精神の残るヨーロッパでは騎馬での決闘も多かった。特にアイルランドで多く見られ、騎馬決闘用のルールもあり、一般的なルールとしては8メートルばかり離れた線の上をギャロップで走らせ、馬上から撃ちあい、線の先端まで行っても勝負が決まらぬ場合には再び元の位置に戻るため馬を走らせるが、その間にも撃ちあい、全弾撃ち尽くしても勝負が決まらなければ弾丸の補給を受けて続けるか、剣で闘うかして決着をつけた。 自転車に乗りながらの決闘、熱気球上での撃ちあいなど変わった決闘もあった。この熱気球の決闘の事例では一方の気球が撃ち抜かれて落下しており、一緒に乗っていた立会人まで命を落としている。 1810年には二人の男が包丁を持って樽の中に入り、樽を川に投げさせる前代未聞の決闘を行ったが、二人とも死亡した。 王政復古時代のフランスでは剣の腕が違いすぎるという理由から条件を対等にするため通りかかった馬車を呼び止めて、その狭い車内で互いに短剣で決闘したという異様な事例もある。立会人は馭者台に乗って合図をかけたが、広場を二周した辺りで車内は静かになり、様子を見ると二人とも瀕死の状態になっていたという。 1830年9月20日の作家シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴと編集者デュボアの雨の中での決闘ではデュボアが「殺されるのは構わないが、風邪だけはひきたくないので」といって傘を持って立ったことで話題になった。 女性が決闘の原因になることは多いが、女性が決闘を行う事例は少ない。しかしこうした稀有な事例は世の関心を引くため記録としては残っている。最も早い記録は1650年にフランス・ボルドーで姉が妹の夫への侮辱したことを巡って姉妹が決闘になった事例がある。 男性と決闘して勝利した女性もある。サン・ベルモント伯爵夫人の事件がそれである。彼女の夫が国王に投獄されてしまったので、その間彼女がその領地を預かって守っていたが、ある騎兵将校が領地に入ってきて勝手に居座り始めた。伯爵夫人はそれを咎めて出ていくよう彼に手紙を送ったが、相手はそれを無視して居座り続けたため、ついに男性名で決闘を申し込み、男装して決闘場所に赴き、相手と剣を交えた末、相手の剣を撃ち落とした。彼女は「剣は返してあげるが、以後は女性に対してもっと尊敬の念を持つよう」相手を諭したといい、この事件は勇敢な女性の美談として話題になった。 フェンシングの手ほどきを受けていたオペラ歌手モーパン嬢(フランス語版)の武勇伝は語り継がれて広く知られている。彼女は決闘で数人の男性を殺害したと言われ、彼女の生涯はテオフィル・ゴーティエによって小説化されている。 19世紀末には女性解放運動の広がりで自分たちの権利の擁護を男性に委ねず、自分で解決すべきだという声が上がるようになり、それが女性の決闘にも影響があったようである。この時期の有名な女性の決闘としては、1892年8月にリヒテンシュタインファドゥーツで音楽劇場展示委員会の名誉会長メッテルニヒ公爵夫人と同委員会委員キルマンセク伯爵夫人が展示物の配置を巡る口論から起きた決闘がある。2人は諸肌脱ぎになって剣を振るったが、結局公爵夫人が鼻にかすり傷を受け、伯爵夫人が上膊を斬りつけられたところで引き分けに終わったという。ただ19世紀後半はすでに決闘自体が下火になっていた時期だった。20世紀になると女性解放運動がさらに勢いを増していくが、女性の決闘が広がった様子は見られない。
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