石部宿の殺陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:17 UTC 版)
岡田以蔵扮する勝新太郎の全力疾走の後の大きな見せどころとなる石部宿での襲撃場面での殺陣の立ち回りの撮影は6月15日に行われた。この近江国の暗殺事件は、安政の大獄で斃れた志士に報いるために、土佐・薩摩・長州の三藩連合25名で結成された刺客団による天誅である。彼らが狙ったのは、「御用召」の名目で江戸に引き上げようとした京都東町・西町奉行所の与力4名であった。 武市半平太はこの刺客団から以蔵を外すが、彼らの出発を知った以蔵が京都から石部宿までの九里十三丁を走り抜け、決闘の最中に間に合って「土佐の岡田以蔵だ」と怒鳴りながら斬り込んでゆくという映画ならではの豪快な演出であった。この三藩連合には、薩摩侍・田中新兵衛も参加し、鮮やかな剣さばきを見せる場面である。 この殺陣の立ち回りの撮影のため、田中新兵衛の役の三島由紀夫は、鹿児島の第11代宗家師範・東郷重政と弟子の浜田一郎を東京に招き入れ、5月16日に調布市の大映東京撮影所で薩摩示現流の稽古をつけてもらっていた。ケンカ剣法のような攻めの剣術である示現流の基本技を覚えた三島は、逆八双の構えから瞬時の2人斬りを披露した。 三島の居合斬りは、大映プロデューサーの藤井浩明や勝新太郎も驚くほどの上達ぶりであった。真剣を素早く抜いて、また収める早業を披露した三島の上手さに勝は舌を巻いた。 居合がうまかったですね。「人斬り」の時、京都に行きましてね、真剣でやるんですよ。パッと抜いてサッと鞘に入れるんですが、うまいですね。勝新太郎と二人で見ていて驚いてしまった。勝君なんか、とてもできないでしょうけど、あの座頭市でもね。 — 藤井浩明「あの人はもういない」 こうして撮影前にセットの片隅などで真剣で居合の練習をしていた三島が、「真剣を使いたい」と言ったため、斬られ役の役者たちは驚き、「ええーっ!」とどよめきの声をあげた。五社監督は、「わかりました」と言い、三島が1人で構えている時だけ真剣を使うことを了承して、絡みの時はさすがに避けたという。 この石部宿の殺陣シーンの撮影には、三島は瑤子夫人や親しい友人たちを京都撮影所に呼んで見学させていた。三島はこのシーンが気に入って何度もリハーサルをやりたがり、本番でも五社監督がOKを出しても、三島は「頼むからもう一度やらせてくれ」と希望し、「OKだからいいですよ」と五社が答えても強く頼み、「これが誰々だ、これが奴だと思いながら斬ってると、実に爽快だよ」と言っていた。 斬られ役の殺陣役者たちは、プロの俳優とは違う三島の身体から発せられる本物の殺気を感じ取り怖がっていたという。実際に三島と絡んだ殺陣師たちは腹ごてをしていたにもかかわらず怪我をした。五社監督は後年、「三島さんはあのとき、もっていた鬱々とした怒りを発散させていたのではないか」と述懐している。 驚いたのは、カラミがみんなケガをしたということだ。腹ごてを当てて、刀が当たっても痛くないようにしているから素人の人などがいくら当たっても、太刀先が流れてしまって、カラミがケガをするということはまずないはずなんだ。ところが、三島さんの殺陣に迫力があって、斬り込みの切先が鋭かったし、三島さんの剣道の腕は何段だったか知らないが、竹光ながらカラミにケガをさせたというのは、非常に実践的な太刀さばきだったと思っている。撮影が終わってから、そのことを話題にしたら、ニヤニヤして、得意然と「オレの剣法は殺人剣である」といっていた。 — 五社英雄「内外タイムス記事」 この立ち回り場面で人が斬られて血しぶきをあげるリアルな殺陣には、血のりがふんだんに使用された。太平洋戦争(大東亜戦争)前の時代劇では、血のりは顔に塗りつける程度しか使用されず、戦後の東映時代劇での中村錦之助と東千代之介の立ち回りでも血しぶきはなかった。 戦後はGHQによる日本の封建主義復活を封じ込める政策により、血のりが使用される歌舞伎や映画の上演・上映は禁止されていた。これは太平洋戦争中にあまりに大量の日本人の本物の血を見せられすぎたアメリカ人の忌避感情も一因にあったとされる。 そしてその禁忌も解かれ、最初に血吹雪のシーンが映画の中に取り入れられたのが黒澤明の『椿三十郎』(1962年)であった。GHQにより抑圧されていたチャンバラでの血のりのエンターテイメントが炸裂し、テレビなどでも血吹雪が多くなった。三島も切腹劇や殺陣シーンの大量の血に日本文化の精髄を見出していた。 何といつても五社監督の本領は立ち回りで、立ち回りのシーンの撮影になると、もう監督の目の色がちがふ。現場全体の空気が躍動してきて、スタッフの目も血走り、役者はもとより張り切つて、無上の興奮から全員子供に返り、血みどろの運動会がはじまる校庭のやうになつてしまふ。私も大よろこびで十数人を斬りまくつたが、大映京都撮影所が一年間で使ふ分量の血ノリを、その日一日で使つてしまつたさうだ。フィクションとはいひながら、殺意が、そこにゐる人すべてを有頂天にするといふのは、思へばおかしな人間的真実である。 — 三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」 この殺陣の撮影を取材したスポーツ新聞の記者は、「いや、スタイルもスタイルだが、三島氏の気迫がまたすごい。サッと振り向いたときの、キラッと光る目玉、相手にのしかかるような肉体。すばやい動作。どうして、アマチュア・タレントとはとても見えない」とレポートした。 撮影を見学していた瑤子夫人は、「こんなに残酷なシーンこどもたちに見せるの、ちょっと考えちゃいますね。でも三島の目の輝き、刀を持った時の身のこなし、初めて見たものですからその激しさに圧倒されてしまいました」とコメントし、五社監督も、「あの大きな目のすさまじい輝きを見ましたか、あれはまさに人を斬る時の目ですよ」と驚いていた。 一緒に立ち回りシーンを演じた勝新太郎は三島の殺陣について、「日ごろの体力づくりで得たエネルギーを、この仕事でブワーッと発散させている感じだ。だから真剣味があって、すごくおっかなく見えるよ。本職は小説家のくせに、腕の太さはものすごいし、演技のカンはクロウトなみだな」と絶賛した。 三島本人は、殺陣のプロ集団の中に自分のような素人が入って失敗したら恥ずかしいので、真剣になって演じたとして、「本番一回でOKを出し、監督にホメられたいというヘンなミエもあるんだね」と取材に答えた。この日の三島の迫力ある演技の撮影写真は、『週刊現代』7月3日号のグラビア4頁で紹介された。 いよいよ待望の石部宿の大立廻りの撮影に入ると、その丸二日間は、大袈裟に云ふと、「夢のやうに」すぎた。それほど面白かつたのである。(中略)東京へかへつてからも、小説の仕事が大いに捗つた。サン=サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして有名になりたいものだと思つてゐる。 — 三島由紀夫「『人斬り』出演の記」
※この「石部宿の殺陣」の解説は、「人斬り (映画)」の解説の一部です。
「石部宿の殺陣」を含む「人斬り (映画)」の記事については、「人斬り (映画)」の概要を参照ください。
- 石部宿の殺陣のページへのリンク