監督・球団経営者としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 監督・球団経営者としての意味・解説 

監督・球団経営者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:13 UTC 版)

根本陸夫」の記事における「監督・球団経営者として」の解説

11シーズン監督務めたが、2年目以降全てBクラスであった。しかしチーム基礎作り上げる手腕への評価高く、全3球団において、根本監督退いたあと数年以内黄金時代築いている。監督としてただチーム采配を振るだけでなく、自ら球団経営チーム編成にも関わり西武時代からは編成最高責任者として活躍した退団した選手再就職先を斡旋あっせん)するなど、選手第2の人生に関する面倒をみた。引退後選手にとって、球団指導者スタッフとして残れたり、解説者評論家就任出来るのはほんの一握りであり、野球選手人生大半野球のみに費やしていることもあって一般企業再就職するのは狭き門である。根本積極的に再就職世話し、それが無理ならグループ企業引き取ってもらったこともあった。恩義感じていた元選手から根本へ、地方素質のある無名選手情報提供もあったという。西武時代辞めた選手全員毎年西武球場フリーパスとなる「家族証」を送った人脈幅広く、「根本人脈」は5,000人とも、1万人ともいわれた。近藤唯之シンガポール講演行った際、根本知り合いだという人物シンガポールにまでいたことに驚きその人脈の広さびっくりしたという。 西武時代はほとんどマスコミには姿を現さず、その行動水面下潜り把握できないことから特殊潜航艇とも呼ばれた取材してもほとんど抽象的な話しかしなかったので、「管理部長の通訳要ると言われることもあった。これは根本のかなり慎重な性格なせいでもあり、根本生前取材していた浜田昭八は、ペンと紙を目の前に出すと本音言わないので、いつも根本がいないところで思い出しながら取材メモ取ったという。ダイエー時代西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術抽象的なのは相変わらずだったので、地元マスコミからは「言語大量意味不明」と揶揄(やゆ)されていた。[要出典] 王監督に対して世界の王」として一歩引いた眼で見ていた選手達に対し1999年キャンプイン直前必勝祈願訪れた福岡市筥崎宮で、「お前たち何を構えているんだ。世界の王と言われる監督も昔はラーメン店息子お前たちとなんら変わりはないんだぞ」と発言選手呪縛解いたという。 大道典良は「根本さんは一軍固定してくれた恩人」と著書記している。 伊原春樹は「根本さんは親分肌人心掌握において有能な方で、指導者なんたるかを教えていただきました」と著書記している。まず、「選手指導しなくてもいいから、しっかり見ておけ」ということ。「選手はいいものを持ってプロ入ってきたのだから、最初むやみに構うな。特に新人に関しては、じっくり観察することから始める」これは伊原が後に読んだ様々な書物中でも同様の指導法記してあり、「なるほど」と思わされた事の一つだったと著書記している。 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例え打撃調子が上がらなかった立花義家辛抱強く中軸使い続けていました投手起用もそう。勝利こだわって何人もつぎ込むことはせず、打たれても簡単に交代させない根本さんにその意図聞いたところ、まずはチームとしての地盤作りその上で勝て監督後任にしたいのだと。勉強になるなあと感心しました」と語っている。 関根潤三著書で「あいつの真価発揮されたのは監督辞めた後のチーム作りだよねぇ。編成トップとして西武黄金時代築き福岡でのホークス土台作った大胆な補強他球団の裏をかくドラフト戦略でそれまで巨人中心球界勢力図塗り替えちゃったんだから。僕はプロ監督をやるとは思いもしなかった。根本そうだった思う。でも二人とも監督として成功したとは言えないな。チーム優勝導いた経験がないんだから。僕と根本はある部分似ている監督には勝つために野球をするタイプ選手育てタイプがいるけど僕ら明らかに後者。これは僕らの恩師である藤田さんの影響だろうね。藤田さんは勝つことより育てることを最優先した指導者だった。根本選手として非常に不器用一つ技術身につけるのに人の何倍も時間かかった。だからだろうね、自分指導者になって選手気持ちがよくわかった。情が深い。育てられなかったら、それは自分責任だと考えていた。おまけにその選手引退後世話までしてたんだから。あいつと話してて、選手悪口聞いたことなかったね」と記している。 福岡時代ライオンズ監督時代近鉄戦で、土井正博佐々木恭介に「おい、恭介、なんで試合出ないんや。(根本監督ウチに来ないかと言ってるぞ」と話し実際に根本近鉄西本幸雄監督佐々木トレード申し込んだその後佐々木はすぐにスタメン使われるようになって、その年首打者獲得根本は死ぬまで佐々木に「恭介俺のおかげやからな」と話していたという。 落合博満引退翌年解説者として春のキャンプ取材した際、球団代表だった根本は「落合現役終わって次は監督、コーチになるなぁ」と話しかけた。「いやぁ、そんな物好きはいませんよ」と言う落合根本は「いや、必ずそういう時代がくる。実績残しているし、そういうのを求める人は必ず現れるから、そうしたらお前、がんばれよ」と告げコーチ森繁和を使うと面白いとアドバイスした落合2004年中日監督就任した際、投手コーチとして招聘し、はバッテリーチーフコーチ、ヘッドコーチ歴任し2004年開幕投手川崎憲次郎指名した以外、落合投手起用一任した。 2016年9月29日中日監督就任会見理想監督として根本の名前を挙げた清原和博西武時代唯一厳しく恐れていた人物で、根本1992年オフ西武退団した後は清原に対して注意できる人がいなくなったという。 西武時代自宅招いた選手夫人特製すき焼き振る舞われていた。割り下牛乳が入る独特の風味で、工藤は「美味しくない」と敬遠して次に呼ばれた時にはステーキ振る舞われたが、大久保博元20回以上食べた

※この「監督・球団経営者として」の解説は、「根本陸夫」の解説の一部です。
「監督・球団経営者として」を含む「根本陸夫」の記事については、「根本陸夫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「監督・球団経営者として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「監督・球団経営者として」の関連用語

監督・球団経営者としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



監督・球団経営者としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの根本陸夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS