監督・球団経営者として
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11シーズン監督を務めたが、2年目以降は全てBクラスであった。しかしチームの基礎を作り上げる手腕への評価が高く、全3球団において、根本が監督を退いたあと数年以内に黄金時代を築いている。監督としてただチームの采配を振るだけでなく、自ら球団経営・チーム編成にも関わり、西武時代からは編成の最高責任者として活躍した。 退団した選手の再就職先を斡旋(あっせん)するなど、選手の第2の人生に関する面倒をみた。引退後の選手にとって、球団に指導者やスタッフとして残れたり、解説者・評論家に就任出来るのはほんの一握りであり、野球選手は人生の大半を野球のみに費やしていることもあって一般企業へ再就職するのは狭き門である。根本は積極的に再就職を世話し、それが無理ならグループ企業に引き取ってもらったこともあった。恩義に感じていた元選手から根本へ、地方の素質のある無名の選手の情報提供もあったという。西武時代は辞めた選手全員に毎年西武球場がフリーパスとなる「家族証」を送った。 人脈が幅広く、「根本人脈」は5,000人とも、1万人ともいわれた。近藤唯之はシンガポールに講演に行った際、根本の知り合いだという人物がシンガポールにまでいたことに驚き、その人脈の広さにびっくりしたという。 西武時代はほとんどマスコミには姿を現さず、その行動が水面下に潜り把握できないことから特殊潜航艇とも呼ばれた。取材してもほとんど抽象的な話しかしなかったので、「管理部長の通訳が要る」と言われることもあった。これは根本のかなり慎重な性格なせいでもあり、根本を生前取材していた浜田昭八は、ペンと紙を目の前に出すと本音を言わないので、いつも根本がいないところで思い出しながら取材メモを取ったという。ダイエー時代は西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術が抽象的なのは相変わらずだったので、地元マスコミからは「言語大量、意味不明」と揶揄(やゆ)されていた。[要出典] 王監督に対して「世界の王」として一歩引いた眼で見ていた選手達に対し、1999年キャンプイン直前、必勝祈願に訪れた福岡市の筥崎宮で、「お前たちは何を構えているんだ。世界の王と言われる監督も昔はラーメン店の息子。お前たちとなんら変わりはないんだぞ」と発言、選手の呪縛を解いたという。 大道典良は「根本さんは一軍に固定してくれた恩人」と著書に記している。 伊原春樹は「根本さんは親分肌で人心掌握において有能な方で、指導者のなんたるかを教えていただきました」と著書に記している。まず、「選手を指導しなくてもいいから、しっかり見ておけ」ということ。「選手はいいものを持ってプロに入ってきたのだから、最初はむやみに構うな。特に新人に関しては、じっくり観察することから始める」これは伊原が後に読んだ様々な書物の中でも同様の指導法が記してあり、「なるほど」と思わされた事の一つだったと著書に記している。 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例えば打撃の調子が上がらなかった立花義家も辛抱強く中軸で使い続けていました。投手起用もそう。勝利にこだわって何人もつぎ込むことはせず、打たれても簡単には交代させない。根本さんにその意図を聞いたところ、まずはチームとしての地盤を作り、その上で、勝てる監督を後任にしたいのだと。勉強になるなあと感心しました」と語っている。 関根潤三は著書で「あいつの真価が発揮されたのは監督を辞めた後のチーム作りだよねぇ。編成のトップとして、西武の黄金時代を築き、福岡でのホークスの土台を作った。大胆な補強と他球団の裏をかくドラフト戦略でそれまで巨人中心の球界の勢力図を塗り替えちゃったんだから。僕はプロで監督をやるとは思いもしなかった。根本もそうだった思う。でも二人とも監督として成功したとは言えないな。チームを優勝に導いた経験がないんだから。僕と根本はある部分似ている。監督には勝つために野球をするタイプと選手を育てるタイプがいるけど僕らは明らかに後者。これは僕らの恩師である藤田さんの影響だろうね。藤田さんは勝つことより育てることを最優先した指導者だった。根本は選手として非常に不器用で一つの技術を身につけるのに人の何倍も時間がかかった。だからだろうね、自分が指導者になっても選手の気持ちがよくわかった。情が深い。育てられなかったら、それは自分の責任だと考えていた。おまけにその選手の引退後の世話までしてたんだから。あいつと話してて、選手の悪口聞いたことなかったね」と記している。 福岡時代のライオンズ監督時代の近鉄戦で、土井正博が佐々木恭介に「おい、恭介、なんで試合に出ないんや。(根本)監督がウチに来ないかと言ってるぞ」と話し、実際に根本は近鉄の西本幸雄監督に佐々木のトレードを申し込んだ。その後佐々木はすぐにスタメンで使われるようになって、その年首位打者を獲得。根本は死ぬまで佐々木に「恭介、俺のおかげやからな」と話していたという。 落合博満が引退の翌年、解説者として春のキャンプを取材した際、球団代表だった根本は「落合、現役が終わって次は監督、コーチになるなぁ」と話しかけた。「いやぁ、そんな物好きはいませんよ」と言う落合に根本は「いや、必ずそういう時代がくる。実績残しているし、そういうのを求める人は必ず現れるから、そうしたらお前、がんばれよ」と告げ、コーチに森繁和を使うと面白いとアドバイスした。落合は2004年に中日監督に就任した際、森を投手コーチとして招聘し、森はバッテリーチーフコーチ、ヘッドコーチを歴任し、2004年の開幕投手に川崎憲次郎を指名した以外、落合は森に投手起用を一任した。 森は2016年9月29日の中日監督就任会見で理想の監督として根本の名前を挙げた。 清原和博が西武時代唯一厳しく恐れていた人物で、根本が1992年オフに西武を退団した後は清原に対して注意できる人がいなくなったという。 西武時代、自宅に招いた選手に夫人特製のすき焼きが振る舞われていた。割り下に牛乳が入る独特の風味で、工藤は「美味しくない」と敬遠して次に呼ばれた時にはステーキが振る舞われたが、大久保博元は20回以上食べた。
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