監督決定の経緯
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「2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表」の記事における「監督決定の経緯」の解説
2008年3月に第2回大会の詳細が発表されたものの、世間の目は2008年8月に開催される北京オリンピックに目が向けられており、WBCの監督人選についても北京オリンピック終了後となっていた。 金メダルを目指した北京五輪代表(星野ジャパン)は4位に終わり、その後、WBCの監督人選問題について報道されるようになる。星野仙一(五輪代表監督)への就任要請があったとの報道 や落合博満(中日監督)への監督就任要請がされ、本人は固辞したとの報道 があった。 9月1日のプロ野球実行委員会で監督人選問題が議論され、コミッショナーの加藤良三を中心に人選を進めることでまとまる。加藤は監督人事や選手選考の体制などについて協議するためのWBC体制検討会議を招集した。検討会議のメンバーは次の通り(肩書きはいずれも当時のもの)。 加藤良三(コミッショナー) 王貞治(前WBC代表監督) 星野仙一(北京五輪代表監督) 野村克也(楽天監督) 高田繁(ヤクルト監督) 野村謙二郎(日本テレビ野球解説者) 会議は10月中旬に数回開催されたが、前代表監督の王(前回終了時点で北京五輪並びに今回の監督就任を辞退する方針を示していた)が健康問題を理由に早々と辞退を表明したこと、現役監督の起用に複数の球団が難色を示したことから、一旦は監督受諾の意思がないと表明した 星野の就任を既定路線 とする方向で進んだ。しかし、五輪で惨敗した星野を就任させることへの世論の反発があり、野村克也は会議の内実について星野の監督就任が既定路線のようであったと発言。また、イチローは、NPBの現役監督は候補から外すという報道に対して「本気で最強のチームをつくろうとしているとは思えない」「WBCは北京のリベンジの場ではない」といった発言を行った。 10月22日に星野が世間の逆風、家族の反対を理由に改めて就任辞退を表明すると、星野の就任を前提としたコーチの人選も白紙となった。 その後は日本一監督を代表監督とする案が浮上し、当初現役監督の起用に反対していた西武が渡辺久信の起用に反対しない考えを表明した ほか、巨人も原の起用を容認 するなど、現役監督の起用が濃厚となった。日本シリーズを控えた段階で日本一となる可能性のあった巨人の原と西武の渡辺に事実上候補は絞られたが、渡辺がこの年就任一年目であったため経験不足が指摘され(渡辺本人も「百戦錬磨の監督が良いと思う」と自身の就任には否定的な立場を取った)、10月27日にセ・リーグを連覇した原へ監督就任の要請を行うことを検討会議で決定し、翌28日に原が監督就任を受諾した。 11月12日には代表コーチ6名を正式発表し、王が日本代表監督相談役に就任することも発表された。
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監督決定の経緯
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「2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表」の記事における「監督決定の経緯」の解説
2004年、アテネ五輪では本戦4ヶ月前に長嶋茂雄日本代表監督が脳梗塞で倒れ、中畑清が監督代行(登録上は監督)で挑み、3位(銅メダル)に終わった。 大会後、長嶋監督は当初「北京五輪では体調を取り戻し、今度こそ金メダルを取りたい」とメッセージを出していたが、半身麻痺と言語障害の回復状況から就任は難しい状況であった。 2005年、メジャーリーガーを含めた初めての世界大会であるWBCの監督には王貞治が就任し、翌2006年3月、王JAPANが優勝。王には次回の代表監督との声もあったが、「球界もいつまでも自分やミスター(長嶋茂雄の愛称)ばかりというのはどうだろう」と発言し、自身は代表監督をその大会限りで退くことを明言した。 2006年、阪神タイガースの星野仙一オーナー付シニアディレクター (以下星野SD) に北京五輪監督就任の要請が行われた。星野SDはアテネ五輪の頃から「リーグは制限枠を撤廃すべき」とオリンピックに関する前向きな提言を行っていた。またアテネ五輪で長嶋が倒れた際には代行の誘いもあったが、「中途半端な形での引き受けは難しい」と考え、多忙等を理由に断っていた。 2007年1月25日、星野SDの監督就任とコーチ陣が正式決定。投手コーチはアテネ代表から引き続き大野豊。星野の盟友である田淵幸一(打撃)、山本浩二(守備走塁)も入閣。
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