北京五輪監督
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2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピックだが、本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。 北京代表監督としての星野への評価については「2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表#本戦での結果」を参照 北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した。一方で、選手との意思疎通を欠いたことや、参加国が同一条件であるにも関わらず、日本と違うストライクゾーンや日本と違う午前中の試合を言い訳として挙げたことや、「批判は甘んじて受ける」と言いながら、帰国会見では「日本はすぐたたきにかかる。そんなことをしたら若い人が夢を語れなくなる。たたくのは時間が止まった人間だろう」といった発言が批判の対象となった。 北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らを投手コーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言し、代表監督は巨人監督の原辰徳が兼任で引き受けることとなった。 WBC代表監督選考問題については「2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表」を参照
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