疏水事業の開始と初期の開墾とは? わかりやすく解説

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疏水事業の開始と初期の開墾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 19:42 UTC 版)

田沢疏水」の記事における「疏水事業の開始と初期の開墾」の解説

戦前から戦後にかけて、食糧増産至上とする国策により、玉川を再び導入して原野水田化する計画立てられた。昭和11年1936年)、内務省逓信省農林省の間で協議され結果田沢湖及び玉川河川水調整利用する発電計画」と「その水利使用計画については国営開墾水利計画両立させる」という方針確定し、「玉川河水統制計画」を策定して疏水計画立てこととした。 「玉川河川統制計画」は、具体的に玉川温泉強酸性水玉川毒水)を田沢湖流し込んで、その毒性中和し生保内発電所・夏瀬発電所神代発電所発電用として利用し、その下流神代調整池神代ダム)に2つ取水口設け北側の「神代取水口」から取水して右岸用水路を、南側神代ダムから放流され抱返り渓谷付近に流されを「抱返頭首工」で取水して左岸用水路それぞれ建設し右岸に471.8町歩左岸に2028.2町歩新たに開墾するほか、既存水田にも利用しようというものであった昭和11年、この計画受けて東北振興一環として東北振興電力株会社の設立許可された。 工事昭和12年1937年)から始まり昭和13年1938年7月5日には千屋村千屋小学校雨天体操場において田沢疏水開墾国営事業起工式挙行された。起工式には総勢360名が出席しそのうち地元関係組合出席者219名にもおよんだアトラクションとして歌舞音曲披露され秋田県会議員戸沢太郎祝辞のなかで、 今日盛儀戦場第一戦にある将兵伝えんか、如何に欣喜雀躍元気百倍にして必ずや著しき戦果収むるものあるを思えば銃後地元民たるもの実に涙なきを得んか。 と述べるなど、多く地元民がいかに田沢疏水着工熱望し、これに期待していたかがわかる。 未墾地を強制買収して水利をともなう、県内では前例のない約3,000町歩およそ3,000ha)の開拓事業始まった当初計画では、2,500町歩開田して、そのうち1,700町歩地元小作農増反用地にあてて経済更生をはかり、のこりの800町歩には約400戸の移住家屋建設して優良な移住者招致し、新農村建設して地方開発の範を示すこととされた。この事業では地域既存農家経営規模拡大をはかるために、事業主体(国)が、農地必要な水源施設水路農道などの基幹工事もとより末端開墾作業とその換地までを一貫しておこなうこととした。これは、青森県上北郡稲生川用水による三本木原開拓(約6,000町歩とともに日本初総合的な開拓事業であった隧道工事並行して昭和13年から4か年継続事業として除毒工事おこなわれた昭和14年1939年)、「玉川河川統制計画」にもとづく工事始まり昭和15年にはついに除毒のために玉川上流田沢湖導入された。日本一深い湖への導水によってその中和され、生保内発電所建設され水力発電可能になったものの、田沢湖はクニマス・ヒメマスなどの棲めない湖になってしまった。昭和16年1941年)には統制計画にもとづく水利協定成立したものの、漁民への補償はわずかであり、河川水流れ込まないカルデラ湖であるところから従来国内一、二をあらそうほどの透明度誇っていた湖水もかつてのおもかげ失った隧道工事開墾事業の方は遅々として進まなかった。日中戦争長期化したため戦地将兵送り出した後で男子労働力不足し建設工事にも「オバコ部隊」と称する多く女性重労働強いられた入植者募集なされたが、昭和15年1940年)の千屋村暁・横沢村ノ木の両地区わずかな入植者があったにとどまった。暁地区への最初の入植者は千屋村内の大工であった坂本寛一郎11であった移住家族住宅坂本自身らによって次々と建てられ部落名の「暁」昭和16年2月11日紀元節の日に、千屋村坂本喜之七村長より命名されたものであった木地区への入植横沢村太田永代などからであった当時開拓者は「…開墾だけをしていては収入がなくて食べていけない。土方行って食いぶちを稼いでくる。その合間見て開墾する。その繰り返しであった」と証言している。太平洋戦争はじまり、戦況きびしさを増すなかで勤労奉仕活発におこなわれた昭和18年1943年)には角館中学校現在の角館高等学校)、角館高等女学校(のちの角館南高等学校)の生徒、および周辺町村青年学校六郷青年学校)、青年団若者同年6月から8月にかけて、のべ4,000名が奉仕している。同時期に由利郡西目農学校現在の西目高等学校)の生徒はじめ、東京都からも「食糧増産隊」が派遣された。「食糧増産隊」は料理飲食業組合帝都食糧増産報告会勤労奉仕隊105名で、その奉仕作業40日間およんだ。しかし、その甲斐もなく昭和19年1944年)には事業全面的な中断余儀なくされた。

※この「疏水事業の開始と初期の開墾」の解説は、「田沢疏水」の解説の一部です。
「疏水事業の開始と初期の開墾」を含む「田沢疏水」の記事については、「田沢疏水」の概要を参照ください。

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