疏水事業の開始と初期の開墾
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「田沢疏水」の記事における「疏水事業の開始と初期の開墾」の解説
戦前から戦後にかけて、食糧増産を至上とする国策により、玉川の水を再び導入して原野を水田化する計画が立てられた。昭和11年(1936年)、内務省・逓信省・農林省の間で協議された結果「田沢湖水及び玉川の河川水を調整利用する発電計画」と「その水利使用計画については国営の開墾水利計画と両立させる」という方針が確定し、「玉川河水統制計画」を策定して疏水計画を立てることとした。 「玉川河川統制計画」は、具体的には玉川温泉の強酸性水(玉川毒水)を田沢湖に流し込んで、その毒性を中和し、生保内発電所・夏瀬発電所・神代発電所で発電用水として利用し、その下流の神代調整池(神代ダム)に2つの取水口を設け、北側の「神代取水口」から取水して右岸用水路を、南側は神代ダムから放流された抱返り渓谷付近に流された水を「抱返頭首工」で取水して左岸用水路をそれぞれ建設し、右岸に471.8町歩、左岸に2028.2町歩を新たに開墾するほか、既存の水田にも利用しようというものであった。昭和11年、この計画を受けて東北振興の一環として東北振興電力株式会社の設立が許可された。 工事は昭和12年(1937年)から始まり、昭和13年(1938年)7月5日には千屋村千屋小学校雨天体操場において田沢疏水開墾国営事業起工式が挙行された。起工式には総勢360名が出席し、そのうち地元関係組合の出席者は219名にもおよんだ。アトラクションとして歌舞音曲が披露され、秋田県会議員戸沢七太郎が祝辞のなかで、 今日の盛儀を戦場の第一戦にある将兵に伝えんか、如何に欣喜雀躍元気百倍にして必ずや著しき戦果を収むるものあるを思えば、銃後の地元民たるもの実に涙なきを得んか。 と述べるなど、多くの地元民がいかに田沢疏水の着工を熱望し、これに期待していたかがわかる。 未墾地を強制買収して水利をともなう、県内では前例のない約3,000町歩(およそ3,000ha)の開拓事業が始まった。当初計画では、2,500町歩を開田して、そのうち1,700町歩は地元の小作農の増反用地にあてて経済更生をはかり、のこりの800町歩には約400戸の移住家屋を建設して優良な移住者を招致し、新農村を建設して地方開発の範を示すこととされた。この事業では地域の既存農家の経営規模拡大をはかるために、事業主体(国)が、農地に必要な水源施設、水路、農道などの基幹工事はもとより末端の開墾作業とその換地までを一貫しておこなうこととした。これは、青森県上北郡の稲生川用水による三本木原の開拓(約6,000町歩)とともに日本初の総合的な開拓事業であった。 隧道工事と並行して昭和13年から4か年継続事業として除毒工事がおこなわれた。昭和14年(1939年)、「玉川河川統制計画」にもとづく工事が始まり、昭和15年にはついに除毒のために玉川上流の水が田沢湖に導入された。日本一深い湖への導水によってその水は中和され、生保内発電所が建設されて水力発電が可能になったものの、田沢湖はクニマス・ヒメマスなど魚の棲めない湖になってしまった。昭和16年(1941年)には統制計画にもとづく水利協定が成立したものの、漁民への補償はわずかであり、河川水の流れ込まないカルデラ湖であるところから、従来は国内一、二をあらそうほどの透明度を誇っていた湖水もかつてのおもかげを失った。 隧道工事・開墾事業の方は遅々として進まなかった。日中戦争が長期化したため、戦地に将兵を送り出した後では男子労働力が不足し、建設工事にも「オバコ部隊」と称する多くの女性が重労働を強いられた。 入植者募集もなされたが、昭和15年(1940年)の千屋村暁・横沢村栗ノ木の両地区にわずかな入植者があったにとどまった。暁地区への最初の入植者は千屋村内の大工であった坂本寛一郎ら11名であった。移住家族の住宅が坂本自身らによって次々と建てられ、部落名の「暁」は昭和16年2月11日、紀元節の日に、千屋村の坂本喜之七村長より命名されたものであった。栗ノ木地区への入植は横沢村太田・永代などからであった。当時の開拓者は「…開墾だけをしていては収入がなくて食べていけない。土方に行って食いぶちを稼いでくる。その合間を見て開墾する。その繰り返しであった」と証言している。太平洋戦争がはじまり、戦況がきびしさを増すなかで、勤労奉仕も活発におこなわれた。昭和18年(1943年)には角館中学校(現在の角館高等学校)、角館高等女学校(のちの角館南高等学校)の生徒、および周辺町村の青年学校(六郷青年学校)、青年団の若者が同年6月から8月にかけて、のべ4,000名が奉仕している。同時期には由利郡の西目農学校(現在の西目高等学校)の生徒はじめ、東京都からも「食糧増産隊」が派遣された。「食糧増産隊」は料理飲食業組合の帝都食糧増産報告会勤労奉仕隊員105名で、その奉仕作業は40日間におよんだ。しかし、その甲斐もなく昭和19年(1944年)には事業の全面的な中断を余儀なくされた。
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