疑いと失望の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 22:54 UTC 版)
「フランシス・ポンジュ」の記事における「疑いと失望の時期」の解説
正式に兵役を解除されるのは1922年のことだが、1919年から1920年まではストラスブールの動員学生センターで過ごし、1919年にフランス社会党 (SFIO) に入党し、同年末には学業継続のための兵役猶予を受けて、パリに戻った。ストラスブールで出会ったガブリエル・オーディジオ(フランス語版)には、このパリでの時期は疑いと失望の時期であったと書き、フィリップ・ソレルスには後に「ブルジョワ社会の観点」を批判する方法を模索していたと語っている。1922年にオーディジオ、および同じくストラスブールで出会ったジャン・イティエ(フランス語版)と文芸誌『ムトン・ブラン(白羊)』を創刊。1923年から『新フランス評論』誌や『ディスク・ヴェール』誌に「譬え話のスケッチ」、「形而上学的断章」、「風刺」などの社会風刺作品を発表し始めた(1926年刊行の処女作品集『12の小品』所収)。とりわけ、アンドレ・ジッドらが創刊し、1919年6月に新編集長ジャック・リヴィエールのもとで活動を再開した『新フランス評論』誌は、この時期、党派性を排除し、外国文学を積極的に紹介したことで国際的な影響力をもつことになった文芸誌である。 1923年に大きな転機が訪れた。父アルマンの死とジャン・ポーランとの出会いである。一方で、欧州では第一次大戦後に既存の価値、思想、観念が崩れ去り、こうした状況で、たとえば「失われた世代」の作家が生まれ、ダダイスムが生まれることになったが、他方で、ポンジュは個人的にも、戦争体験との関連において失語症に陥るほどの日常言語への不信感、使い古された言語、思想・観念・価値が染み込んだ言葉では何も表現できないという絶望感に捉えられていたところに、理解者でもあった父の死は、狂気に陥るのではないかという不安を抱くほどの精神的な危機を引き起こした。こうした時期に出会ったのが、戦前・戦後の30年にわたって『新フランス評論』誌の編集長を務め、フランス文壇を牽引したジャン・ポーランであり、この出会いがポンジュの文学への方向を明確に決定づけたのである。
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