産業革命以降
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産業革命以降、都市への急速な人口集中によってさまざまな「住宅問題」が発生するようになった。都市中心部には低賃金労働者が集中してスラムなど不良住宅地区が生まれ、それを嫌ったブルジョワジーたちは郊外に自宅を構え、都心部のオフィスへと通勤するようになった。こうして19世紀には職住分離が一般化し、通勤需要をまかなうための公共交通機関の発達もはじまって、都心と郊外による都市圏が成立した。一方、労働者層の住宅問題は深刻化し、いくつかの対策が検討されるようになった。こうした対策の一つとして、1898年にはエベネザー・ハワードが明日-真の改革にいたる平和な道によって自然と共存し自立した都市近郊の小都市論、いわゆる田園都市構想を提唱した。また衛生面における住宅改善の必要性は、ル・コルビュジエらに影響を与えた。 都市への人口集中は地価の高騰をもたらし、大都市圏では一戸建ての率が目立って減少し、住宅は集合化・高層化の道をたどった。また住宅が都市のはるか遠方にまで連なるようになり、通勤時間の増大を招くこととなった。貧困のため満足な設備のない住居に居住する人口は現代においても非常に多く、特に途上国では大規模な不法居住地区にスラムが広がっている都市も多い。 19世紀後半に鋼鉄材で強化されたコンクリートすなわち鉄筋コンクリートの技術が開発され、同世紀末にその特許を取得する人なども現れ、これも利用されるようになっていった。
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産業革命以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:38 UTC 版)
18世紀中旬になると製靴業界は問屋制家内工業として広く商業化された。地域の小さな製靴企業によって製造された靴が大きな 倉庫に集められるようになった。 19世紀までは製靴は伝統工芸だったが、19世紀の末頃になると工程のほぼ全てが機械化され、大きな工場で生産されるようになった。大量生産による経済的効率性の高さにも関わらず、工場で製造された靴は靴職人が製造した靴と見分けがつかなかった。 機械化への第1歩はナポレオン戦争中にエンジニアのマーク・イザムバード・ブルネルが踏み出した。彼はイギリス陸軍の兵士が使うブーツを大量に生産するために製造機を開発した。1812年にアッパーと靴底を金属のピンや釘で固定する装置を考案した。ヨーク公爵の支援を受けて靴が製造され、その頑丈さと耐久性の高さと安さが評価されて陸軍で用いられた。同年にリチャード・ウッドマン(英語版)がネジやホチキスを用いた手法の特許を取得した。バタシーにある工場を訪問したリチャード・フィリップス卿(英語版)はブルネルの製造システムを次のように評している。 靴工場の別の建物に案内されると、この建物も同様にとても工夫が凝らされており、ピン工場のような高度なレベルでの分業が実現されていた。全ての工程が美しく正確に効率化されていた。靴は25個の工程に分けて作られ、丈夫で完成度の高い靴を1日に100足製造している。全ての工程は機械の巧妙な働きによって処理され、全てのパーツは高い精度で均一かつ正確に製作される。作業員は1つの工程に専念するため、勉強したり教えたりする必要がなく、本職の職人でなくてもよいため、数時間の研修を受けることが可能であれば負傷した兵士などでもよいという事を意味している。政府への納入品は1足当たり6シリング6ペンスの契約となっているが、これは過去に購入されていた、比べ物にもならない粗悪品より、少なくとも2シリング安い。 しかし1815年に戦争が終了すると労働力が余って賃金が安くなり、また軍需による靴の需要もなくなったため、工場で大量生産する意味が無くなってしまい事業を畳むことになった。 クリミア戦争の時にも似たような現象が起こり、機械化による大量生産に対する需要が再び高まり、今回はそれが長く続いた。レスターの靴職人であるトーマス・クリックが1853年に新しい製造機の設計で特許を取得した。この製造機では金属のリベットを靴底へ打ち込むのに金属の板を用いた。この工程は製造効率を大幅に高めた。1850年代中頃には皮をなめしたりカットするのに蒸気機関を導入した。 1846年にミシンが発明され、製靴の新たな機械化手法として広まった。1850年代後半頃には主にアメリカとヨーロッパで製靴業界の近代化シフトが起きた。1856年にアメリカ人のライマン・ブレイクが靴用のミシンを発明し、1864年に完成形となった。McKayと提携し、McKayのミシンとして知られるようになり、ニューイングランド全体に瞬く間に広まった。これらの発明により製造工程におけるボトルネックが解消され、さらにペグ打ちや仕上げなど多くの工程が次々に自動化されていった。 マサチューセッツ州ローウェルに住むハンフリー・オサリバンが1899年1月24日にゴム底のブーツや靴に関する特許を取得した。 20世紀中頃までには素材がゴム、樹脂、合成布などへ進化し、また接着剤を用いた技術が向上したことにより、これまでの伝統とは全く異なる製法が可能になった。かつては主要な材料であった革は、高価でフォーマルな靴では現在も使われているものの、運動靴ではほとんど又は全く使われなくなった。手縫いで丁寧に仕上げられていた靴底は現在では機械で縫製されるか又は接着されるようになった。ゴムや合成樹脂などの新素材で作られている多くの靴は腐食せず、土に返りにくくなった。大量生産された靴は埋め立て処分場で土にかえるまで1000年を要すると見積もられている。2000年後期にはナイキ(英語版)などの一部の企業が問題を認識し、生分解性(英語版)のある素材を用いた靴を製造するようになった。 2007年の時点で世界の靴業界のマーケットシェアは1074億米ドルで、2012年末に1229億米ドルになると予想されている。63%が中国で製造されており、世界の靴の輸出の40.5%、売り上げ総額の55%を占めている。一方で高価格帯の市場はヨーロッパがほぼ独占している。
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