生命観・生命論の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 14:26 UTC 版)
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う。 古代ギリシャ人たちは、生きている状態のことを希: Ψυχή プシュケーと呼んでいた。プシュケーというのはもともとは息(呼吸)のことであり、呼吸は生きていることを示す最も目立つ特徴なので、この言葉が「生きていること= 生命」も指すようになり、転じて日本語の「心」や「霊魂」という概念まで意味するようになった。アリストテレスは Peri psyches 『ペリ・プシュケース』でこのプシュケーについて論じた。(同著の題名は直訳すれば『プシュケーについて』である。)アリストテレスは初期段階では、生きものの種類によって異なるプシュケーの段階があると見なしていて、(1)植物的プシュケー (2)動物的プシュケー (3)理性的プシュケー(人間のプシュケー)というように区別していたが、やがて植物・動物・人間の間にプシュケーの差というのはさほど絶対的なものではないと見なすようになり、最終的にはそれらプシュケーに差はない、とも記した。 「生物学史」も参照 また、「すべての物質は生きている」とする哲学的な考え方が古くから現代にいたるまである。古くは古代ギリシャのミレトス学派にもそうした考え方があったことが知られている。こうした考え方を物活論(英語版) hylozoism と言う。 ヨーロッパでは中世、キリスト教が広がり、旧約聖書の創世記の記述に従い、神が自然も人間も、動物・植物も、その他 生きとし生けるものすべてを造ったと考えていた。また、12世紀ルネサンスによってイスラーム(アラビア語)の文献がラテン語に翻訳されるようになると、そこで解説されていたアリストテレスの考え方が知られるようになり、その生命論も受け入れられるようになった。 1648年にデカルトが、Le monde(『世界論』とも『宇宙論』とも)の後半にあたるTraité de l'homme(『人間論』)を出版した。デカルトは、人間も含めて全ての生物は神が制作した機械だと見なした。当時、ものの喩えではなく、宇宙は機械だと考えられたが、こうした考えの背景には「神が宇宙を制作した」というキリスト教の信仰がある。と同時に、その本でデカルトは、例えば心臓は熱機関だとし、運動によって説明できる、とし、(アリストテレスが用いていたプシュケーという概念の系統に属するともいえる)植物プシュケーや感覚プシュケーなどは用いなくても説明できる、とした。アリストテレスがプシュケーを用いて、生命と非生命の区別をしふたつは異なっているとしたのに対し、デカルトはその差異は見せかけのものだとして、全てを物の運動で説明しようとした。デカルトの考え方は機械論と呼ばれる。 18世紀になると、それを批判する動きが出た。18世紀フランスの哲学者コンディアックが1749年に『体系論』を出版したが、そこで彼はデカルト以来の17世紀的な「体系」は、事実に根拠を持たない想像力の産物だとして批判し、学問的な知識というのは、“ニュートン力学のように”観察にもとづく事実を出発点にして構築しなければいけない、と述べた。18世紀に博物学が再隆盛した理由としてジャック・ロジェは17世紀の内戦の時代の後に社会が全体的に安定し、人々が「退屈」したことを挙げた。退屈な現実から逃れるため、異国の文物や自然学研究に関心を持ったという。 18世紀には生命と物質の概念の区分けは現代人と異なっていた。たとえば、18世紀の博物学における分類体系においては、大抵は、「動物界」「植物界」「鉱物界」が並置されていた。分類学の父とされるリンネの『自然の体系』(1735)はその典型で、冒頭で「自然物は鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、感覚を持つ」と定義された。 すべてのcreature(被造物。神が創造したもの)というのは、鉱物のような単純なものから植物、動物、そして人間のような複雑な存在へ、さらには人間よりも高度な天使へと連続的な序列をなしている、というイメージはヨーロッパでは根強いものがあった(この連続的な階梯は「存在の大いなる連鎖(英語版) the great chain of being 」と呼ばれる)。 リンネと同年生まれのビュッフォンは自著『博物誌』においてリンネの分類体系(花のおしべやめしべの数で分類するもの)を批判しつつ、客観的な分類は不可能だ、と主張した。上述のように全ての被造物は連続的な序列をなしていると考えられていたので、連続的に変化するものに客観的な区分線などないのだから、自然を分類するということは人為的あるいは恣意的だ、とした。ビュッフォンの『博物誌』もまた四足獣類、鳥類、鉱物の巻があり、それらを等しく対象としていた。 ラマルクは1809年の著書『動物哲学』において、「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と強調した。これは18世紀に台頭したVitalism(ヴァイタリズム)という考え方が背景にある。ヴァイタリズムというのは「生きているものには、物質とは異なる特殊な生命原理がはたらいている」とする考え方であり、「生命原理」「生命特性」や「生命力」といった用語が用いられた。この「生命原理」は、個体全体にはたらくというよりも、個体を構成する器官や組織が持つ特性で、何らかの自然法則である、と考えられた。こうした2点でヴァイタリズムは単なるアニミズムとは異なっていた。アニミズムが「ただの物体としての身体に、超自然的・非物質的な、だが実体的なアニマが宿る」と考えるのに対して、ヴァイタリズムというのは「身体を構成する組織や物質そのものが、何らかの生命原理を持っている。その原理は自然法則であって研究できる」と考える。17世紀〜18世紀にかけて解剖実験が行われるようになり、切り離された心臓がしばらく鼓動しつづけることや、切り離された筋肉が刺激によって動くことが観察されたことなどから、器官や組織は生きている、とする考え方が生まれた。 20世紀になるとホーリスム的な考え方も提唱され、またネオヴァイタリズムや有機体論なども登場した。 現在では、生命は自動制御の機械に譬えられることも多いが、同時にそれは有機体論的にも把握されており、分子生物学な見解も認められており、また、生命を可能ならしめている土台には情報の伝達やエネルギーの方向性のある変換がある、とも言われるなど様々な切り口で把握されており、現代の生命論は複雑な様相を呈している。
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