独立から第二次世界大戦まで(1905年~1945年)
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「ノルウェーの経済」の記事における「独立から第二次世界大戦まで(1905年~1945年)」の解説
「第二次産業革命」、「第一次世界大戦」、「世界恐慌」、および「第二次世界大戦」も参照 ノルウェーが独立した前後、アメリカ合衆国やドイツ帝国などは第二次産業革命の渦中にあった。その頃、肥料として使用されていたチリ硝石が枯渇、新たな肥料が求められていた。事業家のサム・アイデ(en/no)と科学者のクリスチャン・ビルケランドが空気中の窒素を利用した窒素固定による化学肥料を生産するにあたり、大量の電気を欲したため、テレマルク県の瀑布に注目し、スウェーデンやフランスの資本家からの資本を元手に、化学肥料の工場とともに水力発電所を建設した(1905年、ノルスク・ハイドロ(Norsk Hydro、もしくはノシュク・ヒドロ)の創業))。それを契機に、ノルウェー内外の投資家がノルウェー各地に水力発電所とともに、工場を建設、ノルウェーも重化学工業化が進むとともに、ノルウェー国内の電力消費量が1905年から1914年の間に10倍にまで跳ね上がり、電気を利用する世帯数は、1900年頃は全世帯数の10分の1程度であったものが1920年代には3分の2まで上昇した。一方、水力発電所の大規模投資には巨額の資本が必要であることから国内のみならず海外の資本を必要とした。1906年には開発された滝の4分の3が、また、1914年には化学工業と鉱工業の80%以上が外国資本に所有される状況であったため、天然資源を外国資本に牛耳られることへの危惧並びに急速な近代化への懸念から、1909年から1920年にかけて一連のコンセション法(konsesjonslovene)により、企業が天然資源を開発するには、政府の許認可が必要となり、水力発電所が建設された滝は60~80年後に国に返却され、外国企業は森林を購入することが出来なくなった。 一方、急速な近代化に伴い、貧富の格差が拡大したことから、Gunnar Knudsenノルウェー自由党政権は第一次世界大戦までに、疾病保障法、工場査察法、労働者保護法、10時間労働法といった救貧政策、労働政策を実行した。 第一次世界大戦において、ノルウェーはスウェーデン、デンマークとともに中立国の立場をとっていたが、ノルウェーは石油や石炭などをイギリスからの輸入に依存していたことから、イギリス寄りの立場をとっていた。そのため、ドイツはUボートによるノルウェー商船への無差別攻撃を実施、ノルウェーは保有商船の半分を失う被害を受けるとともに第一次世界大戦の最後の二年間は、食料の配給制度を採用するまで追い詰められた。 第一次世界大戦後、ノルウェーはインフレと不況に陥った。大戦中の1914年に金本位制から離脱し、ノルウェー・クローネを大量に発行したことから、物価は上昇、ノルウェー・クローネの価値は下落した。第一次世界大戦開戦までは一桁台であった物価(GDPデフレーターで代替)は1915年には29.5%、1916年には43.7%、1917年には27.6%と前年と比べて上昇した。 大戦後、物価を鎮静化させるために通貨供給量を減らすべくノルウェー中央銀行は金利を引き上げ、ポンドスターリングと金にノルウェー・クローネの価値を連動させようと試みた(金本位制の復帰は、1928年~1931年)。物価抑制の副作用である金利上昇は、農民や漁民の生活を苦しめた。農民は生産拡大で苦境を脱しようとしたものの、供給拡大と都市住民の購買力の低下による需要の減少から商品価格は下落してしまった。国民は国の支援のもと、各種市場調整委員会を設立、市場調整委員会の仕事は価格設定、輸出管理、生産物への課税(税金は価格の安定維持に利用)であった。負債を元手に漁船などの設備を更新した漁民を救済すべく、1919年にノルウェー国立漁業銀行が設立され、漁民はそこから融資を受けた。また、1926年にノルウェー漁業組合が結成され、1920年代末から水産物販売を規定、農民と同様に生産の抑制と価格の引き上げで貧困からの脱出を試みた。企業も生き残るために企業連合を結成し、国もそれを支援した。結果として、1920年代は実質GDP成長率こそプラス圏で推移したものの、生活実感を示す名目GDP成長率は数年を除きマイナスで推移、物価は1924年を除き持続的下落という状態であった。 1929年10月24日、ウォール街大暴落を発端とした世界恐慌はノルウェー経済を苦しめた。1931年から33年の失業率は10%を超え、1930年代を全体としてみると、全人口の10%が救貧措置に依存、地方財政は逼迫した。銀行は多額の不良債権を抱え、数行が倒産の憂き目にあった。1935年、ヨハン・ニーゴーシュヴォル(en)労働党政権は有効需要創出のための財政拡張策を採用、1日8時間労働と年9日の有給休暇を規定した雇用保護法や労働者向けの疾病手当を適用、老齢年金や失業手当を導入するといった社会福祉の拡大を図るなどして、苦境から脱していった。 1940年、ナチス・ドイツのノルウェー侵攻により、ノルウェーはナチス・ドイツの支配下にはいったが、ホーコン7世ら王族や政府の要人はイギリスへ亡命し、海外から抵抗した。ノルウェーの船主は政府と協力し商船会社ノトラシップ(en / no)を設立し、ノルウェー亡命政府を資金面から支援した。国内ではレジスタンスが結成され、ナチス・ドイツへの抵抗が行われた。大戦中のノルウェー経済は打撃を受けたが、戦時経済は、国民や地方政府がこれまで背負った負債を解消させるとともに、国民の団結力を強めることとなった。
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