独立から混沌へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 04:37 UTC 版)
1826年8月 アルト・ペルーはボリバルの名にちなんで、「ボリビア」という国名になり正式に独立した。11月19日、ボリバル憲法を公布する。同時に首都も憲法上はチャルカスが改名されてスクレとなった。12月9日、スクレが終身大統領に就任する。自由主義的な改革がなされるが、保守派の恨みを買い、ベネズエラ人の支配を嫌う声も囁かれた。 1828年 スクレ大統領が侵攻してきたペルーのアグスティン・ガマーラ(英語版)を打ち破るが、すぐにガマーラと結んだ国内保守派の陰謀により大統領を辞任し、キートヘ亡命する。(実はサンタ・クルスも関わっていたといわれている。) 1829年 ボリバルの推薦により、5月25日、サンタ・クルスが大統領に就任する。サンタ・クルスはインカ帝国の後継者を自称し、大学、港湾、鉱山など国内の開発を続け、軍備を強化した。保護貿易を導入して国内の綿産業を保護した。 1836年 大統領のアンドレス・デ・サンタ・クルスがアグスティン・ガマーラを破ってペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合を打ち立てる。連合は三州に分けられ、首都は南ペルー共和国のタクナに置かれた。 1839年 連合に脅威を抱いたチリ(既に死去していたディエゴ・ポルターレスの影響が大きい)とアルゼンチンのフアン・マヌエル・デ・ロサス軍の攻撃により連合は崩壊する。これによりサンタ・クルスが追放されるとボリビアは無政府状態に陥った。 1841年 国内の混乱の中、サンタ・クルス派のホセ・バリビアンがペルーから侵攻してきたアグスティン・ガマーラをインガビの戦い(英語版)で打ち破り、ガマーラは戦死した。以降、ペルーとボリビアの合邦を望む動きはなくなった。 1847年 メスティーソの軍人マヌエル・イジドロ・ベルス(スペイン語版)の反乱によりバジビアンが亡命する。 1848年 ベルスが大統領になる。ベルスは保護政策を採り、ポプリスモ的な政策で大衆の支持を得る。 1857年 ホセ・マリア・リナレス文民政権成立。ボリビア初の文民政権として自由主義政策を採り、インディオを弾圧した。このころ太平洋沿岸部のリトラル県(アントファガスタ)で最初の硝石鉱山が発見された。 1861年 クーデターによりリナレスが追放される。 1864年 それまで影で権力を握っていたベルスを暗殺したメスティーソの軍人、マリアーノ・メルガレホが政権につき、国内の混乱が頂点に達する。「野蛮カウディージョ」と呼ばれたその手法により国内すべての階層が大打撃を受け、特にインディオは大弾圧され、共有地は解体されて奪われた。その後メルガレホはアントファガスタの硝石の採掘権をチリに売却した。 1867年 アヤクーチョ条約(スペイン語版)の締結でアクレ県がボリビアに帰属。 1871年 メルガレホ大統領が失脚する。 1874年 バジビアン政権の永代所有禁止法により、インディオの共有地は壊滅的な被害を受け、以降インディオは鉱山やプランテーションの日雇い労働者となっていった。 1879年 アントファガスタをチリに占領され、さらにペルーと硝石問題に関して秘密同盟を組んでいたことが仇となり、チリがペルー・ボリビア両国へ宣戦布告して硝石戦争(太平洋戦争(1879年-1884年))となる。 1883年 ペルーとチリの間での、硝石戦争(太平洋戦争(1879年-1884年))の休戦。チリに対する事実上の敗北が決まる。
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