毛織物生産の隆盛とオランダの勃興とは? わかりやすく解説

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毛織物生産の隆盛とオランダの勃興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)

近世における世界の一体化」の記事における「毛織物生産の隆盛とオランダの勃興」の解説

詳細は「オランダ黄金時代」を参照 西ヨーロッパ生産され毛織物アメリカ大陸植民地にも送られた。アメリカ大陸の銀は、スペインによって拓かれたアカプルコ=マニラ航路などの太平洋航路によってアジア送られ香辛料などと交易され、その結果毛織物工業西ヨーロッパにおける基幹産業となっていった。15世紀末から17世紀前半にかけてのイングランドでは、牧羊地の確保のために第一次囲い込みおこなわれ多く農民土地失ったトマス・モアはこのことを、主著ユートピア』で「羊が人を食う」と批判した。 「太陽の沈まない国スペインハプスブルク帝国において、その経済中心毛織物生産さかんなネーデルラントだった。イングランドフランスにおけるカトリック勢力対すスペイン支援混乱をまねき、属領ネーデルラント商人貴族のあいだにはプロテスタントカルヴァン派)の信仰浸透したスペイン本国産業基盤脆弱であり、アメリカで獲得した富はネーデルラント流出していった。 対抗改革反宗教改革)の中心だったスペインは、フェリペ2世時代カルヴァン派商工業者の多いネーデルラントカトリック強制したため、それに反発した人びとの間に八十年戦争おこって、しだいにスペイン支配から離反していった。ネーデルラントカルヴァン派ゴイセン(「乞食」という意味)と呼ばれたスペインアルマダ戦いでイギリスにやぶれ、フランスとの間のフランス・スペイン戦争(西仏戦争)にも敗退して17世紀には衰退向かっていった。 北部ネーデルラント7州は、スペインとの戦争中の1581年連邦共和国として独立宣言し17世紀はじめに事実上独立はたしたオランダ)。共和政オランダヨーロッパ経済活動中心となり、1602年アジア貿易従事する会社統合し世界最初の株式会社であるオランダ東インド会社を、バタヴィア政庁を置く総督の下でオランダ領東インド設立し同社先頭さかんに海外進出した相前後して1600年にはイングランドイギリス東インド会社設立した。これはエリザベス女王より貿易独占付与され会社だったが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者利益分配するしくみをとった。 イングランドオランダ両国豊臣政権から権力奪取した徳川家康接近し日本におけるスペインポルトガル権益奪い取っていった。とりわけオランダ1623年モルッカ諸島アンボイナ島イギリス商館日本人傭兵オランダ商館のようすを探っていたとしてアンボイナ事件起こしイギリス勢力駆逐成功すると、キリシタン勢力糾合による倒幕恐れ徳川幕府巧みに接近し島原の乱前後してスペインポルトガル勢力日本から追い出すことに成功して長崎出島において対日貿易独占果たしたオランダは、アジアへの重要中継点をポルトガルからうばい、ジャワスマトラモルッカ植民地とし、香料貿易さかんに行って1619年、その拠点ジャワバタヴィア置いた。さらに、台湾南部ゼーランディア城1624年)、北米ニューアムステルダム1626年オランダ西インド会社設立1621年)、南アフリカケープ植民地1652年)、南アジアではセイロン島コロンボ1656年)などを拠点海外勢力拡大したタスマンによる南太平洋探検1642年-1644年)もおこなわれたオランダ繁栄主として中国インドヴェトナム生糸日本運んで銀・入手し、それを元手香辛料砂糖茶・陶磁器などのアジア産品獲得してアジア各地イスラーム世界ヨーロッパ転売したことによる。このオランダ隆盛を「覇権」と呼ぶことができるかどうかについて意見分かれている(世界システム論#ヘゲモニー参照)。山下範久も、ポルトガルイギリスがヨーロッパ・アジア間の交易こだわったのに対しオランダ場合アジア域内貿易量が欧亜間のそれよりもはるかに多いことを示し近世ヨーロッパおよびアジア帝国完結性に穴をうがった域際的性格の強いものだったことを指摘している。また1630年にはペルナンブーコ州などブラジル北東部沿岸4州なども奪いアジアから持込んだサトウキビプランテーション経営した。その繁栄は必ずしも長続きしなかったが、オランダ香辛料以外のアジア産品重要性に気づいたことや、アメリカ大陸および西インド諸島サトウキビ大農経営展開したことはヨーロッパ諸国刺激し各地経済大きく変えていく契機となった。 こうしてオランダ17世紀前半には商業・金融海運などの分野覇権をにぎり、バタヴィア拠点とするアジア貿易ケープセイロン拠点有したインド洋での中継貿易大西洋三角貿易バルト海貿易のいずれにおいても圧倒的な競争力をもち、自由貿易推進していった。首都アムステルダムは、リスボンかわって西ヨーロッパ最大商業・金融都市として繁栄した1630年当時オランダ保有した商船の数は全ヨーロッパ商船の約半数達した。なお、1634年から37年にかけては、アムステルダムでトルコチューリップ球根栽培権利取引過熱化し、球根1つ邸宅2戸分に相当する値がついたという。このことを、チューリップ・バブル呼んでいる。 オランダの勃興は、芸術面でも新しい動き生んだルーベンスヴァン・ダイクなどフランドル派呼ばれたバロック作家宗教画肖像画多く描いたのに対しオランダ画派属すレンブラント市民生活風物多く描いたフェルメールピーテル・デ・ホーホまた、オランダ黄金時代風俗画家として知られる

※この「毛織物生産の隆盛とオランダの勃興」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
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