毛織物生産への進出
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1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると春吉も戦地に赴き、後に野村毛織を創業することになる中島郡一宮町出身の野村藤右衛門と交友を結んでいる。戦場で支給された軍絨から毛織物に将来性を感じ、日本に帰国すると孫三郎とともに輸入品が大半だった毛織物の生産を志した。1896年(明治29年)には志げとの間に長男の片岡孫忠が生まれている。春吉は妻子を置いて単身で上京し、同年に設立されたばかりの東京モスリン紡織株式会社(後の大東紡織株式会社、現在のダイトウボウ)に無給の見習い職工として入社した。 東京モスリン紡織でモスリンの製造技術を習得して津島町に戻ると、1898年(明治31年)3月には尾張製糸の工場跡地に片岡毛織工場を設立し、孫三郎が工場主、26歳の春吉が工場長となった。片岡毛織のロゴは「M」と「A」を組み合わせたものであるが、これは孫三郎の「ま」を表したものである。1897年(明治30年)には長女のいとが、1900年(明治33年)には次男の孫次が生まれている。 1901年(明治34年)にはモスリンに代わるセル地(和服用織物、セルジス)の開発に成功。日本で初めて製織されたセル地だった。片岡毛織のセル地は同年11月には第5回愛知県五二品評会で銅賞牌を受賞し、1902年(明治35年)には第2回全国製産品博覧会で有功二等賞銀牌を受賞し、1903年(明治36年)には大阪で開催された第5回内国勧業博覧会で二等賞牌を受賞した。こうして片岡毛織工場は名声を博し、東京の市田商店などにも商品を卸した。1902年(明治35年)には三男の弘が生まれ、1904年(明治37年)には四男の昇が生まれている。1904年11月には日露戦争に召集され、32歳だった春吉は後備陸軍歩兵伍長として出征した。日露戦争での毛織物の軍絨はまだ輸入に頼っており、イケイケ気分だった春吉はドイツのハートマン社とイギリスのジョージ・ホジソン社製の織機を輸入して生産を拡大させた。
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