死
『聊斎志異』巻1-31「葉生」 書生の葉(しょう)は、なかなか科挙の試験に受からなかった。とうとう病気になるが、なんとか回復し、その後ようやく合格して挙人となった。葉は故郷へ錦を飾ろうと、3~4年ぶりに家に帰る。すると妻が「貴方はずいぶん前に亡くなった。貧しくて墓を作れないので、柩がまだ家にある」と言う。葉は驚き落胆して、柩を見る。とたんに葉の姿は消え、あとに着物や帽子や靴が落ちていた。
★2.死と同時に意識がなくなるので、自分が死んだことに気づかない。
『思い出す事など』(夏目漱石)13~15 胃潰瘍で病臥する「余(夏目漱石)」は、胸苦しくなって右へ寝返ろうとし、次の瞬間、目をあけて、金盥の中にべっとり吐いた血を見た。「余」は寝返ってから血を見るまで明瞭な意識を継続しており、出来事は一分(いちぶ)の隙もなく連続しているもの、と信じていた。だから、1ヵ月ほどして妻(さい)から「あの時、30分ばかりは死んでいらしったのです」と聞いた折は、まったく驚いた。
★3.「お前は自分が死んだのに気づかないのだ」と言われて、「自分はもう死んでいるのかもしれない」と思う。
『粗忽長屋』(落語) 八五郎が、長屋の熊公の所へ飛んで来て「浅草の雷門の前で、お前が死んでるぞ」と教える。熊公は「昨夜は吉原をひやかして帰りに1杯やって、観音様の脇を歩いて、そこからどうやって家へ帰ったか覚えがない」と首をかしげる。八五郎は「お前はそこで倒れて死んだのを、気づかずに帰って来たんだ」と言う。熊公は「それなら俺は死んだのかもしれない」と思い、自分の死体を引き取りに出かける→〔アイデンティティ〕1b。
★4.生きている人間は本当は死んでいて、死んだ人間が本当は生きているのかもしれない。
『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順) 陸軍士官学校ドイツ語教授青地豊二郎と、もと教授中砂(なかさご)糺は、親友だった。中砂は旅に出て、麻酔薬を吸って遊んでいるうちに死んでしまった。中砂の遺児豊子は、毎夜夢の中で、死んだ中砂と話をする。豊子は青地に言う。「お父さんは元気よ。おじさんこそ『生きている』って勘違いしてるんだわ」。死者を載せる小舟の前で、豊子は青地を手招きする。「まいりましょう」。
『死んでいる時間』(エイメ) マルタンは、1日おきにしかこの世に存在しない。真夜中から真夜中まで24時間、彼は現世に生活しているが、それに続く24時間は、肉体も魂も無に帰してしまう。その間の記憶はまったくない。マルタンの恋人は、彼が死んでいる日は、当然ながら他の男とつき合う。マルタンは世をはかなみ、深夜0時にタクシーにひかれる。その瞬間彼は消え、その後、姿を現すことはなかった。
*ジエキル博士からハイド氏へ移り変わる瞬間に自殺する→〔分身〕6の『シャボン玉物語』(稲垣足穂)「ジエキル博士とハイド氏」。
*生きたり死んだりするが、死んでも無になるわけではなく、冥府で仕事をする男の物語もある→〔冥府往還〕1・2。
『ピーター・パン』(バリ)1 ウェンディのお母さんは、子供の頃、ピーター・パンについて聞いたことがあった。ピーター・パンは妖精たちと一緒に暮らしている。子供たちが死ぬと、その子たちが怖(こわ)がらないように、途中までついて行ってくれる、というような話だ。お母さんは子供の頃は信じていたが、今では、「ピーター・パンなどいるはずがない」と思っている。
★7.死ぬと年をとらない。
『今年も十九』(松谷みよ子『日本の伝説』) ある晩、19歳の娘が糸を紡いでの帰り道、日原町の八幡さまの先の岩場で殺された。それから、夜ここを通ると、「去年も19 今年も19 ぶうん ぶうん」と歌って、糸車を回す音が聞こえた。それで、そこを「ぶんぶん岩」というようになった。またある晩は、少し離れた野原で、「去年も19 今年も19」と言って、その娘が踊っていた。そこを「十九原」という(島根県)。
*死ぬと、50年以上たっても若い姿のまま→〔老翁〕1bの『不死』(川端康成)・〔老婆〕1bの『閲微草堂筆記』。
*処女のまま死んだ娘は、年をとることなく天国で幸福に暮らせる→〔五人姉妹〕2の『五人少女天国行』(ワン・チン)。
『私は霊界を見て来た』(スウェーデンボルグ)第2章の5 2人の霊がいて、1人は20歳過ぎの青年の顔、もう1人は60歳を越えた老人の顔をしている。だからといって青年が若く、老人が年をとっているわけではない。青年は、老人より数千年も前に死んで、霊界に入っているのだ。霊界には時間がなく、年齢もない。霊は年をとらない。彼らは人間として死んだ時の顔つきを残しているに過ぎない。
★8.立往生。
『義経記』巻8「衣川合戦の事」 藤原泰衡の軍兵数百騎が、義経の居館に押し寄せる。義経は法華経を読み終えてから自害しようと、静かに読経を続ける。弁慶は「私は、たとえ死んでも、殿が経を読み終えなさいますまでの間、お守りいたします」と言い、長刀(なぎなた)を逆さまにして杖に突き、敵をにらんで、仁王立ちに立ったまま死んだ。敵軍は、弁慶が生きていると思い、しばらくの間、義経の館へ近づかなかった。
『高館』(幸若舞) 義経追討軍と戦う弁慶は、衣川の真砂に長刀を突いて立往生する。弁慶が動かなくなったので、追討軍の1人、沼楯(ぬまだて)の庄司が、恐る恐る近寄って弓筈で突く。枯れ木のごとく弁慶が倒れる時、手に持った長刀がひらめく。沼楯の庄司は「弁慶が切りかかる」と驚き恐れ、落馬して衣川に落ち、死んでしまった。
『ケルトの神話』(井村君江)「光の神ルーフの子ク・ホリン」 英雄ク・ホリンは戦場において、敵将レウィが投げた槍で脇腹を貫かれ、致命傷を負う。彼は「立ったまま死にたい」と思い、自分の身体を野原の石柱にしばりつける。ク・ホリンの首はしだいに下がり、やがて彼が息絶えた時、背後の石柱にひびが入った。レウィがク・ホリンの髪をつかみ首をはねると、ク・ホリンの持っていた剣が落ちて、レウィの右腕を切り落とした。
『コーラン』34「サバア」11~13 スライマーン(=ソロモン)は、精霊たちを使役して神殿を建築している最中に死んだ。彼の死体は杖に寄りかかって、生きているかのようだったので、精霊たちはまったく気づかなかった。1匹の土蛆が1年かかってスライマーンの杖を喰い尽くし、彼はばたりと倒れた。ようやく精霊たちはスライマーンの死を知ったが、その時、神殿は完成していた。
『ラーマーヤナ』第4巻「キシュキンダーの巻」 インドラ神が雷霆でハヌーマンを撃ったが(*→〔太陽〕3f)、ハヌーマンは打撃に耐えて生き延びた。インドラ神はこれを喜び、ハヌーマンを、自ら望まぬ限り死なない身体にした。
『かいま見た死後の世界』(ムーディー)2「死の体験」 臨終を迎えた人の前には、しばしば光の生命が出現する。光の生命は一瞬のうちに、その人の全生涯をパノラマのように映し出して見せる。人生のすべての出来事が、時間的経過の順に従ってではなく、同時に現れるのだ〔*「人生の中の重要な出来事だけを見た」とか、「時間順の映像を超スピードで見た」などの報告もある〕。パノラマ映像を見ている時には、それにともなう過去の情緒や感情までが再体験される。
*死滅を前にした地球の全生命が、生命発生以来の歴史をふり返る→〔地球〕8の『午後の恐竜』(星新一)。
『小桜姫物語』(浅野和三郎)13 「私(小桜姫)」が34歳でこちら(霊界)へ移ってから20年近く後に、母が亡くなった。臨終の母の枕辺には、10人余りが眼を泣き腫らして、永の別れを惜しんでいた。こちらの世界の見舞い手は、母よりも先に亡くなった父、祖父、祖母、親類縁者、親しい友達、母の守護霊、司配霊、産土(うぶすな)の御神使(おつかひ)など、現世の見舞い手よりはずっと多く、賑やかだった。自分達の仲間に親しき人を1人迎えるのだから、皆、勇んでいるような、陽気な面持ちをしていた。
*帝王や国主の死を隠す→〔隠蔽〕4の『史記』「秦始皇本紀」第6・〔影武者〕1の『影武者』(黒澤明)。
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