衣川合戦とは? わかりやすく解説

衣川合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:24 UTC 版)

鈴木重家」の記事における「衣川合戦」の解説

義経記』によると、義経主従奥州高館衣川館藤原泰衡討手軍勢待ちうけながら開いた宴のさなか、重家は馬の足踏み外して痛めながらも熊野より到着し源義経より佐藤兄弟佐藤継信佐藤忠信)の残した鎧を賜った文治5年1189年)閏4月30日、泰衡は500騎の兵をもって武蔵坊弁慶、重家、重清らわずか10数騎の義経主従襲撃した衣川の戦い)。弁慶が「はやせよ、殿ばら。東夷の奴ばらに我ら優美の道を思い知らそう」というと、すぐに重家・重兄弟が鼓と笛ではやしたて弁慶はうたいながら舞ったその後、重家、重清、弁慶は馬を並べて太刀抜き大声喚きながら馬を駆けたために敵は秋風木の葉を散らすように元の陣に逃げていったといわれる。 重家は、逃げていく泰衡の郎党照井太郎に、敵に背を見せて逃げずに止まるよう声をかけ、戻ってきた照井太郎を斬り負かして右肩斬りつけ照井太郎を引き下がらせた。重家はその他に左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し7、8人に手傷を負わせたところで自分深傷を受け、「亀井六郎犬死にするな、重家は今はかうぞ」を最後の言葉太刀で自らの腹を掻き切って自害したと伝わる。享年33歳古代氏族系譜集成/中巻)。重清も「鈴木三郎重家の弟亀井六郎生年23弓矢の手日来人に知られたれども、東の方の奴ばらは未だ知らじ。初め物見せん」と言いながら大勢中に割って入り、兄の後を追って自害し果てた

※この「衣川合戦」の解説は、「鈴木重家」の解説の一部です。
「衣川合戦」を含む「鈴木重家」の記事については、「鈴木重家」の概要を参照ください。

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