衣川合戦
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『義経記』によると、義経主従が奥州高館の衣川館で藤原泰衡の討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなか、重家は馬の足を踏み外して痛めながらも熊野より到着し、源義経より佐藤兄弟(佐藤継信・佐藤忠信)の残した鎧を賜った。文治5年(1189年)閏4月30日、泰衡は500騎の兵をもって、武蔵坊弁慶、重家、重清らわずか10数騎の義経主従を襲撃した(衣川の戦い)。弁慶が「はやせよ、殿ばら。東夷の奴ばらに我らが優美の道を思い知らそう」というと、すぐに重家・重清兄弟が鼓と笛ではやしたて、弁慶はうたいながら舞った。その後、重家、重清、弁慶は馬を並べて太刀を抜き、大声で喚きながら馬を駆けたために敵は秋風が木の葉を散らすように元の陣に逃げていったといわれる。 重家は、逃げていく泰衡の郎党・照井太郎に、敵に背を見せて逃げずに止まるよう声をかけ、戻ってきた照井太郎を斬り負かして右肩を斬りつけ、照井太郎を引き下がらせた。重家はその他にも左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し、7、8人に手傷を負わせたところで自分も深傷を受け、「亀井六郎犬死にするな、重家は今はかうぞ」を最後の言葉に太刀で自らの腹を掻き切って自害したと伝わる。享年33歳(古代氏族系譜集成/中巻)。重清も「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23、弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方の奴ばらは未だ知らじ。初めて物見せん」と言いながら大勢の中に割って入り、兄の後を追って自害し果てた。
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