衣川遺跡群の発掘調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「衣川遺跡群の発掘調査」の解説
近年の学術調査で本当の衣川の場所が特定されつつあり、その発掘調査から藤原基成の宿舘である衣川館が燃えていないことが判った(ボルテ・チノ日本の心 義経と静の会)。東北芸術工科大学の入間田宣夫は、『吾妻鑑』等の史料を基に「基成の館そのものは、火災ほかの被害を受けることもなく、基成一家の暮らしには、なんら変化が無かったことが察知できる。それどころか、義経の居宅、「持仏堂」でさえ、火災などの被害を受けることが無かった」としている。「義経の首はなんら損傷もなく、勿論焼疵もなく、鎌倉に運ばれ首実検を供えられることが出来たのではないか、今までの一面が火の海になったというイメージが作られていたが、それは間違いでありそれが不思議でならない」と云っている。『吾妻鑑』や『玉葉』には一言も燃えたとする記載はない。『義経記』だけに「猛火は程なく御殿につきけり」等と書かれ、この書が創作であるということが判り、その影響の結果である。 火災が無かったということはすなわち、燃えていないどころか、合戦もなかったとする方が自然であると云う見方を近年はされている。
※この「衣川遺跡群の発掘調査」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「衣川遺跡群の発掘調査」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。
- 衣川遺跡群の発掘調査のページへのリンク