衣川営での逗留
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延暦8年3月28日(789年4月22日)、「陸道」を進軍していた2~3万人ほどの軍勢が衣川を渡河して、その北岸に3ヵ所の軍営(衣川営)を置いた。 同軍の指揮を担当したのは副使・入間広成で、鎮守副将軍・池田真枚と同・安倍猨嶋墨縄が作戦の策定にあたった。広成らは衣川を渡って北岸に軍営を築いた旨を、後方の玉造塞より全軍の総指揮を執っていた古佐美の許に報じている。 古佐美が延暦8年4月6日(789年5月5日)付で都へ送った奏状の文章の一部が『続日本紀』延暦8年6月3日(789年6月30日)条と延暦8年6月9日(789年7月6日)条に引用されており、朝廷軍は胆沢の地の北上川東岸に集結した蝦夷軍を征し、その後で一挙に盆地奥部まで攻める計画をしていた。しかし衣川北岸に軍営を築いたあと、朝廷軍はその場で逗留し、しばらく動く気配がなかった。
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