衣川関の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)
一方、安倍軍は頼義から追撃を命じられた武則の部隊によって衣川関へと敗走していた。翌6日、高梨宿に着陣した頼義は直ちに衣川関を攻める構えを見せた(衣川関の戦い)。しかしながら衣川関は、かの函谷関と比される堅牢さであり、さしもの官軍も攻めあぐねる状態であった。そこで武則は久清という部将を呼び寄せ、衣川関に潜入して火攻めを行うよう命じた。久清は命令通りこれを実行し、安倍軍はたちまち大混乱に陥った。頼義は官軍を率いてこれを散々に討ち破り衣川関を制圧した。尚、この最中に義家と貞任の有名な「年を経し糸の乱れのくるしさに(貞任) 衣の館はほころびにけり(義家)」の和歌のやり取りの逸話が生まれている。この一連の戦いで安倍軍は平孝忠、金師道、安倍時任、安倍貞行、金依方などが戦死し、貞任は父・頼時絶息の地である鳥海柵へと敗走していった。
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