第2次松方内閣
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第2次松方内閣(だいにじ まつかたないかく)は、伯爵の松方正義が第6代内閣総理大臣に任命され、1896年(明治29年)9月18日から1898年(明治31年)1月12日まで続いた日本の内閣。
注釈
- ^ a b 1896年(明治29年)9月22日まで外相、文相を兼任。
- ^ 1897年(明治30年)3月29日から外相、農商務相を兼任。
- ^ a b c 進歩党の政権離脱により辞任。
- ^ a b 1897年(明治30年)9月2日まで陸相、拓殖務相を兼任。
- ^ 1896年(明治29年)10月3日まで貴族院議長を兼任。
- ^ 林田亀太郎は「解散するなら政府は自分の所信を国民に披瀝するのでなければならず、松方の解散は行きがけの駄賃で、解散の意義を解さないもの」と評している[15]
- ^ 日本国憲法下では、総選挙後の首班指名前に内閣は総辞職するためあえて選挙前に総辞職する意味はない。また解散から首班指名までは解散した首相が首相として扱われるが、解散時に総辞職されてしまっては首班指名までの首相権限の行使者について深刻な問題が生じる。政党内閣の場合、総辞職した首相を与党党首として選挙が戦えるか、という問題も出る。
出典
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」、明治29年9月18日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、明治29年9月22日
- ^ a b c d e 『官報』号外「叙任及辞令」、明治30年11月6日
- ^ a b c d 『官報』号外「叙任及辞令」、明治29年9月20日
- ^ a b c d 『官報』号外「叙任及辞令」、明治29年9月26日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、明治29年9月28日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、明治30年3月29日
- ^ 『官報』号外「叙任」、明治30年11月8日
- ^ 『官報』第4251号「勅令」、明治30年9月1日
- ^ 『官報』第3971号「叙任及辞令」、明治29年9月21日
- ^ a b 『官報』第4283号「叙任及辞令」、明治30年10月9日
- ^ a b 『官報』第3979号「叙任及辞令」、明治29年10月1日
- ^ a b 『官報』第4300号「叙任及辞令」、明治30年10月29日
- ^ 升味, pp. 62–63.
- ^ 戸川猪佐武「松方正義と日清戦争の砲火」講談社、1983年、P256~257
- ^ 升味, pp. 63–64.
- 1 第2次松方内閣とは
- 2 第2次松方内閣の概要
- 3 主な政策
- 4 外部リンク
松隈内閣
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詳細は「第2次松方内閣」を参照 6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えることを考慮するようになった。板垣は反対したが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした。8月31日に伊藤は辞任し、元老会議では山縣が推薦されたが病気を理由に辞退した。元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという。進歩党員からの入閣はなかったが、内閣書記官長として進歩党の高橋健三が、また内閣法制局長官に進歩党に近い神鞭知常が就任している。 「二十六世紀事件」も参照 10月25日、小雑誌『二十六世紀』に伊藤と土方久元宮内大臣を批判する記事が掲載された。『二十六世紀』には高橋内閣書記官長が関与している雑誌であり、閣議ではこの雑誌の発行禁止措置を巡って議論が起きた。大隈は発禁に反対したが、閣議の大勢は発禁を主張する声が高く、結局『二十六世紀』は発禁となった。 明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった。大隈は次官に大石正巳を就任させるなど進歩党員を農商務省に送り込み、また古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める一方で、操業は継続させた。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に司法大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。
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