本門戒壇の大御本尊とは? わかりやすく解説

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本門戒壇の大御本尊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 20:54 UTC 版)

本尊 (日蓮正宗)」の記事における「本門戒壇の大御本尊」の解説

大石寺奉安堂所蔵の縦約143センチ、横約65センチ楠木とされる曼荼羅である。写真明治期熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたが、その後日蓮正宗写真撮影禁止する方針をとった(熊田本の写真はこちらを参照)。 日蓮正宗では、本門戒壇の大御本尊は、1279年弘安2年10月12日日蓮出世の本懐として作成したといい、日蓮作成曼荼羅中でも究境の大曼荼羅位置づけ広宣流布暁には日本国民一同帰依すべき本尊定めている。熱原の法難契機として日蓮の命により当時はまだ所化であった泉公、後の日法彫刻した宣伝している。 対して日蓮宗法華宗、また北山本門寺京都要法寺等の他の日興門流はこの立場取らず戒壇本尊日蓮死後の後世偽作された曼荼羅であると主張し近年の研究では大石寺9世の日有(室町時代法主)が他山対抗して制作したのである結論付けており、現在まで論争火種になっている。 また大石寺59世だった堀日亨晩年日蓮作では無いと近辺の者にのみ(大橋慈譲など)暴露しており、隠居後大石寺から離れて伊豆畑毛の地に雪山荘を建てて移り住み戒壇本尊には給仕をしていない日亨研究により戒壇本尊日禅授与本尊を基に作成され偽物であるという話を、当時池袋法道院主管であった早瀬日慈68日如の父)が、後の67世である阿部日顕(当時教学部長)に大橋慈譲著の亨師談聴聞記と戒壇本尊写真及び日禅授与本尊写真引用して話をしており、戒壇本尊偽物であるとの結論から宗務院辞表提出し有馬温泉身を隠していた時期もあった。 更に阿部日顕河辺メモにもあるよう日蓮正宗僧侶である河辺慈篤(当時徳島敬台寺住職)に対して戒壇本尊偽物である。日禅授与本尊を板に彫ったものだ」と帝国ホテルにて二つ本尊写真示しながら話しており、河辺自身もその重大さ日蓮正宗との対決決め込んで敬台寺立て籠もる事件発展してしまったのだが、やがて宗務院側から再三説得丸め込まれてしまい「あれは自分記録ミスだった」と自信の非を詫びる形で幕引きをしている。。 創価学会日蓮正宗傘下の時代はこの戒壇本尊信仰の対象としており、例え1955年日蓮宗との法論小樽問答」の際の記録にも見て取れる。しかし、1990年代日蓮正宗との対立の末に日蓮正宗から破門されると、それまで信仰していた戒壇本尊信仰の対象から徐々に外していった。 1999年には河辺慈篤メモ河辺メモ)が流出し、そこにはメモ流出当時日蓮正宗法主日顕が「戒旦の御本尊のは偽物」と発言してたとする記述があったことから、創価学会側はこの記述利用して日蓮正宗への批判強め、ついに2014年会則改正によって正式に戒壇本尊受持対象としない」ことを決定したまた、日蓮正宗所属していた正信会も「戒壇本尊弘安二年に存在していなかった」「日蓮作ではない後世作り物」とする結論発表し未だ戒壇本尊支持する派閥と、戒壇本尊支持しない派閥とに別れて内部分裂至っている。 一方冨士大石寺顕正会日蓮正宗から離脱している現在も戒壇本尊信仰続けており、日蓮出世の本懐論を踏襲している。 戒壇本尊後世作られであろう理由としてはいくつかある。 他の弘安二年の曼荼羅と筆配が全く異なる点や、日蓮直弟子である六老僧戒壇本尊記録が全く無いこと、当時彫刻した日法はまだ所化であり、その日法すら戒壇本尊について全く触れていないこと、六老僧日蓮滅後日蓮身延下山中戒壇本尊に対して給仕していないこと、大石寺2祖日興や3祖日目等が書写した本尊戒壇本尊モデルにしていないこと、大石寺4世日道書の宗祖御伝土代にすら戒壇本尊について全く書かれていないこと、弘安二年十月時点身延山板本尊を安置する本堂完成していないこと、当時弟子中に板本尊の漆を塗る技術者がいないこと、板本尊の文字使われている金箔調達不可能であること、身延山周辺板本尊の原料となっている生えていないこと、「身延の池に板の原木浮き上がった」「日興共同板本尊を作った」等の逸話存在していたが都合が悪いのか最初からそんな逸話無かったことにしようとしていること、大事な板本尊なのに池上邸へ下っている間は誰も板本尊を守護していないこと、日興身延離山時に大石寺運んだというが日興は原殿御返事身延から何も持ち出していないと手紙残していること、朝廷提出した申し状にすら板本尊について何一つ触れていないことなどが上げられている。 また大石寺9世日有戒壇本尊作成したに関して北山本門寺の日浄が「日有未聞未見の板本尊を作った」と批判しており、日有はその批判受けて晩年大石寺去りわざわざ山梨杉山向かい身を隠している。 最近の研究では日蓮日興日目相伝されていた本尊戒壇本尊ではなく嘗て大石寺存在していた萬年救護本尊であることが判明している。 3世日目から血脈受けたのは日道ではなく日郷であったので、当然日郷萬年救護本尊日目から受け継ぎ南条家との争い敗れた後は大石寺から萬年救護本尊持ち出して小泉移動している。日蓮作の本尊が無い大石寺としては、日郷持ち去った萬年救護本尊対抗してどうしても日蓮作の本尊必要になり、日郷門流との争い一段落着いた頃が丁度日有時代でもあった。 大石寺2~6世の天皇への申し状書状戒壇本尊について一言触れていないのは、当時存在していないからである。9世日有戒壇本尊作成した後は天皇への諫暁辞めてしまっている。それは大石寺としてのある程度教義寺院整備内部規律他山との比較大石寺立ち位置築き上げることに成功したので、日有としては天皇威光借りずとも満足いく結果残せたのであろう。まさにこの頃から今の大石寺基礎というものができたので、中興の祖とも呼ばれる所以ここからきているのである大石寺17世の日精も「日興が身に賜わった、弘安二年に譲られ萬年救護の大本尊は現在保田有り」と述べているが、それを大石寺31世の日因二本線引いて訂正加え日興が身に賜わった弘安二年の戒壇本尊当山有りと書き換えている。 このように近年の研究では戒壇本尊偽作された背景当時の状況等が徐々に分かってきているのであるが、日蓮正宗側はこのような事実頑なに受け止めず、「不相伝の輩には分からぬものだ」「戒壇本尊誹謗することは堕地獄原因だ」「批判している輩は戒壇本尊存在しては困る連中だ」とかえって中傷して断じて聞く耳を持たないのが実情である。

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