本門戒壇の大御本尊
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「本尊 (日蓮正宗)」の記事における「本門戒壇の大御本尊」の解説
大石寺奉安堂所蔵の縦約143センチ、横約65センチの楠木製とされる板曼荼羅である。写真は明治期に熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたが、その後日蓮正宗は写真撮影を禁止する方針をとった(熊田本の写真はこちらを参照)。 日蓮正宗では、本門戒壇の大御本尊は、1279年(弘安2年)10月12日に日蓮が出世の本懐として作成したといい、日蓮作成の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅と位置づけ、広宣流布の暁には日本国民一同が帰依すべき本尊と定めている。熱原の法難を契機として日蓮の命により当時はまだ所化であった泉公、後の日法が彫刻したと宣伝している。 対して日蓮宗や法華宗、また北山本門寺や京都要法寺等の他の日興門流はこの立場を取らず、戒壇本尊は日蓮死後の後世に偽作された曼荼羅であると主張し、近年の研究では大石寺9世の日有(室町時代の法主)が他山に対抗して制作したものであると結論付けており、現在まで論争の火種になっている。 また大石寺59世だった堀日亨も晩年は日蓮作では無いと近辺の者にのみ(大橋慈譲など)暴露しており、隠居後は大石寺から離れて伊豆の畑毛の地に雪山荘を建てて移り住み、戒壇本尊には給仕をしていない。 日亨の研究により戒壇本尊は日禅授与本尊を基に作成された偽物であるという話を、当時池袋法道院の主管であった早瀬日慈(68世日如の父)が、後の67世である阿部日顕(当時教学部長)に大橋慈譲著の亨師談聴聞記と戒壇本尊の写真及び日禅授与本尊の写真を引用して話をしており、戒壇本尊は偽物であるとの結論から宗務院に辞表を提出し有馬温泉に身を隠していた時期もあった。 更に阿部日顕は河辺メモにもあるように日蓮正宗僧侶である河辺慈篤(当時徳島敬台寺住職)に対して「戒壇本尊は偽物である。日禅授与の本尊を板に彫ったものだ」と帝国ホテルにて二つの本尊の写真を示しながら話しており、河辺自身もその重大さに日蓮正宗との対決を決め込んで敬台寺に立て籠もる事件に発展してしまったのだが、やがて宗務院側からの再三の説得に丸め込まれてしまい「あれは自分の記録ミスだった」と自信の非を詫びる形で幕引きをしている。。 創価学会も日蓮正宗傘下の時代はこの戒壇本尊を信仰の対象としており、例えば1955年の日蓮宗との法論「小樽問答」の際の記録にも見て取れる。しかし、1990年代に日蓮正宗との対立の末に日蓮正宗から破門されると、それまで信仰していた戒壇本尊を信仰の対象から徐々に外していった。 1999年には河辺慈篤のメモ(河辺メモ)が流出し、そこにはメモ流出当時の日蓮正宗法主・日顕が「戒旦の御本尊のは偽物」と発言していたとする記述があったことから、創価学会側はこの記述を利用して日蓮正宗への批判を強め、ついに2014年の会則改正によって正式に「戒壇本尊を受持の対象としない」ことを決定した。 また、日蓮正宗に所属していた正信会も「戒壇本尊は弘安二年に存在していなかった」「日蓮作ではない後世の作り物」とする結論を発表し、未だ戒壇本尊を支持する派閥と、戒壇本尊を支持しない派閥とに別れて内部分裂に至っている。 一方、冨士大石寺顕正会は日蓮正宗から離脱している現在も戒壇本尊の信仰を続けており、日蓮の出世の本懐論を踏襲している。 戒壇本尊が後世に作られたであろう理由としてはいくつかある。 他の弘安二年の曼荼羅と筆配が全く異なる点や、日蓮や直弟子である六老僧に戒壇本尊の記録が全く無いこと、当時彫刻した日法はまだ所化であり、その日法すら戒壇本尊について全く触れていないこと、六老僧が日蓮滅後や日蓮が身延下山中に戒壇本尊に対して給仕していないこと、大石寺2祖日興や3祖日目等が書写した本尊が戒壇本尊をモデルにしていないこと、大石寺4世の日道書の宗祖御伝土代にすら戒壇本尊について全く書かれていないこと、弘安二年十月時点で身延山に板本尊を安置する本堂が完成していないこと、当時の弟子の中に板本尊の漆を塗る技術者がいないこと、板本尊の文字に使われている金箔の調達が不可能であること、身延山周辺に板本尊の原料となっている楠が生えていないこと、「身延の池に板の原木が浮き上がった」「日興と共同で板本尊を作った」等の逸話が存在していたが都合が悪いのか最初からそんな逸話が無かったことにしようとしていること、大事な板本尊なのに池上邸へ下っている間は誰も板本尊を守護していないこと、日興が身延離山の時に大石寺へ運んだというが日興は原殿御返事で身延から何も持ち出していないと手紙に残していること、朝廷へ提出した申し状にすら板本尊について何一つ触れていないことなどが上げられている。 また大石寺9世日有が戒壇本尊を作成した事に関して北山本門寺の日浄が「日有は未聞未見の板本尊を作った」と批判しており、日有はその批判を受けて晩年は大石寺を去りわざわざ山梨の杉山へ向かい身を隠している。 最近の研究では日蓮→日興→日目に相伝されていた本尊は戒壇本尊ではなく、嘗て大石寺に存在していた萬年救護の本尊であることが判明している。 3世日目から血脈を受けたのは日道ではなく日郷であったので、当然日郷が萬年救護本尊を日目から受け継ぎ、南条家との争いに敗れた後は大石寺から萬年救護本尊を持ち出して小泉へ移動している。日蓮作の本尊が無い大石寺としては、日郷が持ち去った萬年救護本尊に対抗してどうしても日蓮作の本尊が必要になり、日郷門流との争いに一段落が着いた頃が丁度日有の時代でもあった。 大石寺2~6世の天皇への申し状の書状に戒壇本尊について一言も触れていないのは、当時は存在していないからである。9世日有が戒壇本尊を作成した後は天皇への諫暁も辞めてしまっている。それは大石寺としてのある程度の教義や寺院整備、内部の規律、他山との比較や大石寺の立ち位置を築き上げることに成功したので、日有としては天皇の威光を借りずとも満足いく結果を残せたのであろう。まさにこの頃から今の大石寺の基礎というものができたので、中興の祖とも呼ばれる所以はここからきているのである。 大石寺17世の日精も「日興が身に賜わった、弘安二年に譲られし萬年救護の大本尊は現在保田に有り」と述べているが、それを大石寺31世の日因は二本線を引いて訂正を加え「日興が身に賜わった弘安二年の戒壇本尊当山に有り」と書き換えている。 このように近年の研究では戒壇本尊が偽作された背景や当時の状況等が徐々に分かってきているのであるが、日蓮正宗側はこのような事実を頑なに受け止めず、「不相伝の輩には分からぬものだ」「戒壇本尊を誹謗することは堕地獄の原因だ」「批判している輩は戒壇本尊が存在しては困る連中だ」とかえって中傷して断じて聞く耳を持たないのが実情である。
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