本能寺の変から小牧・長久手の戦い
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「織田信雄」の記事における「本能寺の変から小牧・長久手の戦い」の解説
天正10年(1582年)6月2日、信長が家臣の明智光秀によって討たれ(本能寺の変)、6月13日には織田家臣の羽柴秀吉が光秀を討つ(山崎の戦い)。本能寺の変に際して信意は近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、戦わないまま撤退した。『勢州軍記』によれば、伊賀の国人衆が不穏な動きを見せた事や、信孝の四国征伐軍に信意の軍勢の大部分を援軍として派遣しており兵数が2500程度で心もとなかった事が理由だという。確かに、信孝は5万石程度の所領(『当代記』)で各地の軍勢がかき集められたが、伊勢国からは北伊勢衆のみである。10月に、東国において徳川家康と後北条氏らとのあいだで甲斐・信濃の武田遺領を巡り発生した天正壬午の乱では、信意は信孝とともに双方の和睦を仲介した。 戦後の清洲会議で信意は兄・信忠亡き後の織田家の後継者になろうとするものの、結局、織田家当主は三法師、後見役は信意、信孝となる。信長の遺領配分で、信意は尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続した。その際、織田姓に復して信勝[要出典]、次いで信雄[要出典]と称し、家臣の津川義冬を家老に取り立てている[要出典]。義冬は信雄の一字を与えられて「雄光」と改名した。天正10年(1582年)、信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善とが荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された[要出典]。天正10年10月28日、秀吉・惟住長秀・池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故し、信雄を当主として擁立し主従関係を結んだ。後にこれは徳川家康にも賛同された[要出典]。 尾張・伊勢を支配した信雄は、2度にわたる検地を実施し、知行制の統一を図った。天正11年検地は、全領国を貫高で統一的に把握し、改めて知行宛行を行うことで統一的知行制を実現した。更に天正14年再検地では、新たな検地原則の下に在地掌握の強化が図られ、それによって確立した知行制は、貫高制ではあっても既に信長時代の貫高制を止揚した、近世石高知行制の内実を備えたものとみなし得る。 その後、台頭してきた秀吉と信孝・柴田勝家らが争い、天正11年(1583年)4月に賤ヶ岳の戦いが発生した。信雄は秀吉方に属した。5月には信孝を岐阜城に攻めて降伏させた。信孝は尾張に送られる途中で切腹させられた。柴田勝家とお市の方が自害した後に三人の娘を引き取って後見して面倒をみたのは秀吉ではなく、信雄であるともいわれており、また三姉妹の三女の江を佐治一成に嫁がせたのも秀吉ではなく、信雄であったとされる。藤田達生は、山崎や賤ヶ岳で勝利した秀吉が信長の政権を直接継承した訳ではなく、信雄が秀吉に臣従するまでは親子2代の織田政権(安土幕府)であったとする見解を示している。 さらに勝家方の滝川一益も秀吉に降服し、信雄は北伊勢・伊賀を加増され、前田玄以を京都所司代に任命し、三法師の後見として安土城へ入城した。しかし、すぐに秀吉に退去させられ、信雄と秀吉の関係は険悪化した。天正12年(1584年)正月に近江国坂本の三井寺で秀吉と会見したが決裂し、伊勢長島城に戻った。そして信雄は家康に接近し同盟関係を結ぶ。 天正12年(1584年)3月6日、家康と相談した上で秀吉に内通した疑いにより重臣の津川雄光(義冬)・岡田重孝・浅井長時を殺害して秀吉に宣戦布告をする(小牧・長久手の戦い)。3月11日に清州城で家康と作戦会議を開き陣城の構築を指示した。また長宗我部元親・佐々成政・雑賀衆とも結び連合して羽柴家と戦った。織田・徳川連合軍は秀吉と戦闘状態に入り、4月9日の長久手の戦いで羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取った。しかし、伊勢では誅殺された重臣3人の一族が造反し、更に秀吉の計略で九鬼嘉隆・秋山直国らも謀反に及び、また羽柴秀長・蒲生氏郷・堀秀政・筒井順慶・藤堂高虎ら羽柴勢の侵攻を受け、峯城・松ヶ島城・戸木城が落城した。そして11月15日、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、家康に無断で単独講和を結んだ。このため、信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。なお、柴裕之はこの講和の後に秀吉は信雄を正式な織田家の当主(三法師の名代ではなく)に据えたとする。 戦後、信雄の領国は、尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)となった。領国の縮小により、家臣団の知行替えが大規模に行われた。この際、滝川雄利に神戸城(河曲郡)を与えた。 以降は秀吉に臣従し、天正13年(1585年)8月の富山の役に従軍した。また11月には家康の元へ織田長益・滝川雄利・土方雄久を送り上洛を促している。天正15年(1587年)の九州征伐では出陣する秀吉を勅使らとともに見送った。九州征伐後は内大臣に任官。天正18年(1590年)1月、秀吉の養女となった長女・小姫と徳川秀忠が結婚。なお、長島城は天正13年(1585年)11月の天正地震で大破したため、地震以後は清洲城を改修し、居城とした。
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