書体・書風
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本書の書体は行書体を主体に草書体を交え、書風は豊麗で悠揚とした荘重な和様である。その書は、満身の筆力を内蔵した懐の広い字形に豊潤な趣をにじませ、下書きながら端正かつ重厚で、温かみがある。その筆意の中には古く日本に伝えられた王羲之のいわゆる蔵鋒の妙がよく学ばれていることがわかる。 『智証大師諡号勅書』は勅書のため謹直に、本書は屏風のため優雅に、『玉泉帖』は詩を書いたものゆえ情緒豊かにそれぞれ書かれており、道風の多彩な才能を感じさせる。ただ、和様といっても藤原佐理・藤原行成のように筆使いは繊細でなく、古体であり、石川九楊は、「約100年後に書かれた藤原行成の『白氏詩巻』に比べると、抑揚法の表現がやや未成熟。」と述べている。 作詩した朝綱も書に自信があり、その書風は旧態の唐様であることから、道風の新しい和様を排斥しようとその書技を争った。が、決着がつかず、勅判を乞うこととなり、「朝綱の書の道風に劣ること、道風の才(詩文)の朝綱に劣れるが如し」と村上天皇が仰せとの記述が、平安時代の説話集『江談抄』に見える。
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書体・書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:23 UTC 版)
筆者、刻者は不明である。書体は楷書体。六朝北派の書風であるが、すでに唐式が加味され、凛然としている。奈良時代の写経にも通じているが、素朴含蓄のあるものとなっている。 碑面は多少の加工はあるが、だいたい自然のままで、石の疵を避けたり、窪んだ中にそのまま刻したりしたところもある。また、石面が荒く、凹凸のあるところは大きく刻したところもあるので、石面に直接、墨書したものと思われる。刻法は生き生きとして、おおらかな気分であり、しかも一種、高古真率なものが漂う。全体としてよく整っており、彫刻の技術も進んでおり、肉筆に対するがごとき感を与えている。 清の楊守敬は、「和文に属するといえども、また書法の別格、自立するに足る。」と称している。廣岡義隆は、「原碑の文字は一点一画も疎かにしないきびきびとした書風で、惚れ惚れとするものである。書道上も意義あるものと確信する。」と述べている。
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書体・書風
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「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の記事における「書体・書風」の解説
本銘文の筆者は不明である。書体はやや偏平で柔らかみを帯びた楷書体であるが、196文字中、35文字が今日の活字に存在しない上代通行の文字で、日本の上代金石文にしばしば現れる、いわゆる俗字を用いている。用筆は遒勁で精熟、韻致の高い作である。鏨彫りを用いた刻法も行き届き、法隆寺金堂薬師如来像光背銘に見るような鏨のまくれがない。ただし、横画や転折にやや荒削りのところがあり、また、終わりの方は彫りが浅く、字体が萎縮している。全体的には整然と配置された字配りによって統一感に満ち、秀麗と評される。 書風には見解の相違があり、『法華義疏』に通じる六朝書風(南朝)、隋代の墓誌銘風、虞世南・欧陽詢らを思わせる初唐の書風などといわれている。大山誠一は、「六朝書風のところも、初唐の書風の部分もあり、一つの書風で書かれていない。」と述べている。銘文中に9文字ある「しんにょう」の書き方が特徴的で、「しんにょう」が右下に軽く消えるように流れている。これについて魚住和晃は、「南朝書法の影響を受けている。」と述べているが、大山誠一は、「8世紀の墨書土器などに見られ、日本化した書風と考えることができる。」と解釈し、六朝書風への限定を否定している。
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書体・書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:37 UTC 版)
書体は行書体を主体に草書体を交え、書風は、和様漢字の元祖と称されるに相応しく、豊潤な和様である。その太い重量感と弾力性のある墨線は気力に溢れて盛り上がってくるように感じられ、能書道風の壮年期の面目を遺憾なく発揮している。日本の書道史上、特筆すべきことは、道風がそれまでの唐様の模倣から脱して、和様を創始したということである。その特徴は、王羲之などの唐様では、起筆・送筆・収筆をはっきりさせた三折法が採られ、点画が直線的であるのに比べ、和様では運筆の抑揚が優美で抒情味あふれ、起筆・送筆・収筆の区切りが曖昧になり、点画が曲線的になることにある。しかし、南北朝時代の書論『麒麟抄』には「羲之が手に肉を懸て、道風は書給へり、然りと雖も羲之が所定の筆法に替はらざるなり」(道風は王羲之の書に少し肉付けをして書いているが、その書法の根本は変わらない)とあり、両者の書法はまったく正反対のものではないとある。
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書体・書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 20:54 UTC 版)
「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の記事における「書体・書風」の解説
本銘文の筆者・刻者は不明である。書体は痩せた楷書体で、古意もあって風韻が高く、刀法もあざやかで筆触のような味がある。また文字は角張っており、「天」や「大」の字が左に傾く特徴があることから、初唐の頃の書風(隋唐書風)といわれている。 飛鳥時代の書風は、当時、百済で流行していた六朝書風(南朝)に始まり、やがて遣隋使・遣唐使の派遣により直接中国大陸の書が流入し、隋唐書風へと変化していく。その飛鳥時代の書風の変化の好例として引用されるものに、『法華義疏』(六朝・南朝書風)と『金剛場陀羅尼経』(初唐の欧陽詢風)があるが、『法華義疏』が615年頃の筆跡であるのに対し、『金剛場陀羅尼経』は朱鳥元年(686年)の年紀を有する筆跡である。ゆえに本銘文も7世紀後半の筆跡の刻字と推定されている。 六朝書風 六朝書風とは、中国・六朝時代の書風のことであるが、書道史でいう六朝時代とは、晋から南北朝時代までを指す。六朝時代の書風は、北朝(北魏など)と南朝(晋など)でかなり異なり、北朝は石碑や墓誌に書かれたものが多く、力強い峻険な楷書が中心、南朝では建碑が禁止されていたため法帖が多く、行書や草書が中心である(中国の書道史#北碑南帖を参照)。日本ではまず南朝系が盛行し、ついで北朝系が伝入した(法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘#仏像様式と書法文化の源流を参照)。 隋唐書風 隋唐書風とは、隋の墓誌や初唐の石碑に見られる書風のこと。主に楷書に対するもので、洗練さと謹直な筆勢が特徴である。六朝時代に南北で著しく趣を異にしていた書風は、隋代になると統一化と洗練化が進み、新たな楷書体へとその書風を進化させていった。やがてその鋭利で澄み切った書法は、初唐の欧陽詢らによって大きく開花されたのである(中国の書道史#初唐を参照)。 六朝書風(南朝書法、『法華義疏』、伝聖徳太子筆) 六朝書風(北魏書法、『元懐墓誌』) 初唐の書風(『九成宮醴泉銘』、欧陽詢筆) 初唐の書風(『金剛場陀羅尼経』)
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