仏像様式と書法文化の源流とは? わかりやすく解説

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仏像様式と書法文化の源流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 14:43 UTC 版)

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の記事における「仏像様式と書法文化の源流」の解説

釈迦三尊像のようないわゆる「止利式」の仏像については、明治時代学者平子鐸嶺以来中国北朝北魏仏像その様式的源流求めるのが長年通説となっているが、これには異説もある。中国美術史学者吉村怜は、止利式仏像様式中国南朝源流をもち、それが朝鮮半島百済経由して日本伝えられたとした。この説は、日本仏教伝えた百済中国南朝との国家の間には密接な外交関係があったのに対し百済北魏の間には交流のあった形跡認められないことなどに基づく。 本銘文書風特徴一つ起筆と収筆が尖りがちであることが挙げられるが、この特徴北魏書風には程遠いといえる前述のように本像は北魏様式仏像というのが通説であったため、この仏像様式銘文書風との不統一長い間疑問であった。が、近年同じよう不統一仏像百済扶余地域から発見され法隆寺諸仏百済扶余時代初期様式影響を受けたものであることが明らかになっている。また、百済遺物である『武寧王陵買地券』(ぶねいおうりょうばいちけん、525年?)には買地券銘文刻されており、これについて萱原晋は、「流麗な南朝系の楷書書かれている。」と述べている。武寧王南朝との活発な交流通して百済熊津文化ゆうしんぶんか)を築いた王として知られる欽明朝(在位539年 - 571年)の頃から大化の改新645年)まで、日本は特に百済との友好関係強めていたため、南朝文化日本盛行していた。しかし、それ以後蘇我氏倒した中大兄皇子(後の天智天皇)らによって、特に高句麗から北朝文化が伝入され、中国南北両朝文化日本並行して展開された。高句麗遺文である『広開土王碑』(414年)は北魏の『鄭羲下碑』に通じ日本遺文である『宇治橋断碑』(646年通説)は北魏の『張猛龍碑』の書法刻されている。その『宇治橋断碑』には、上に大きな石(笠石)が乗せられていた形跡があり、これは同じく北魏書法で刻され日本の碑、『那須国造碑』(700年)や『多胡碑』(711年)などにも共通する。その笠石の形は、特に高句麗墓石多く見られるもので、魚住和晃は、「高句麗から百済経由して北魏書法が伝入する経過を示すものといえよう。」と述べている。 六朝書風南朝書法、『法華義疏』、伝聖徳太子筆) 六朝書風北魏書法、『元懐墓誌』) 六朝書風北魏書法、『鄭羲下碑』) 六朝書風北魏書法、『宇治橋断碑』) 初唐書風(『九成宮醴泉銘』、欧陽詢筆)

※この「仏像様式と書法文化の源流」の解説は、「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の解説の一部です。
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