仏像様式と書法文化の源流
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「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の記事における「仏像様式と書法文化の源流」の解説
釈迦三尊像のようないわゆる「止利式」の仏像については、明治時代の学者・平子鐸嶺以来、中国北朝の北魏の仏像にその様式的源流を求めるのが長年の通説となっているが、これには異説もある。中国美術史学者の吉村怜は、止利式仏像の様式は中国南朝に源流をもち、それが朝鮮半島の百済を経由して日本へ伝えられたとした。この説は、日本に仏教を伝えた百済と中国南朝との国家の間には密接な外交関係があったのに対し、百済と北魏の間には交流のあった形跡が認められないことなどに基づく。 本銘文の書風の特徴の一つに起筆と収筆が尖りがちであることが挙げられるが、この特徴は北魏の書風には程遠いといえる。前述のように本像は北魏様式の仏像というのが通説であったため、この仏像様式と銘文書風との不統一は長い間の疑問であった。が、近年、同じように不統一な仏像が百済扶余地域から発見され、法隆寺の諸仏が百済扶余時代初期の様式の影響を受けたものであることが明らかになっている。また、百済の遺物である『武寧王陵買地券』(ぶねいおうりょうばいちけん、525年?)には買地券銘文が刻されており、これについて萱原晋は、「流麗な南朝系の楷書で書かれている。」と述べている。武寧王は南朝の梁との活発な交流を通して百済に熊津文化(ゆうしんぶんか)を築いた王として知られる。 欽明朝(在位・539年 - 571年)の頃から大化の改新(645年)まで、日本は特に百済との友好関係を強めていたため、南朝の文化が日本で盛行していた。しかし、それ以後は蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)らによって、特に高句麗から北朝の文化が伝入され、中国南北両朝の文化が日本で並行して展開された。高句麗の遺文である『広開土王碑』(414年)は北魏の『鄭羲下碑』に通じ、日本の遺文である『宇治橋断碑』(646年・通説)は北魏の『張猛龍碑』の書法で刻されている。その『宇治橋断碑』には、上に大きな石(笠石)が乗せられていた形跡があり、これは同じく北魏書法で刻された日本の碑、『那須国造碑』(700年)や『多胡碑』(711年)などにも共通する。その笠石の形は、特に高句麗の墓石に多く見られるもので、魚住和晃は、「高句麗から百済を経由して北魏の書法が伝入する経過を示すものといえよう。」と述べている。 六朝書風(南朝書法、『法華義疏』、伝聖徳太子筆) 六朝書風(北魏書法、『元懐墓誌』) 六朝書風(北魏書法、『鄭羲下碑』) 六朝書風(北魏書法、『宇治橋断碑』) 初唐の書風(『九成宮醴泉銘』、欧陽詢筆)
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