仏像以前の仏教美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 12:57 UTC 版)
「インド美術#宗教美術の用語」も参照 初期仏教の時代は、建築や装飾美術において、後代の造像につながる様式が確立された。ストゥーパは、釈迦の墓であり、ダルマの象徴であり、涅槃へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ)であった。 インド亜大陸の大部分を版図に治めたマウリヤ朝の第3代アショーカ王(紀元前3世紀半ば)は、戦いでの傷心から仏に帰依し、入滅時に8基のストゥーパに分けられた舎利を分配し、8万4千ものストゥーパと、象・牡牛・馬・獅子を頂に抱いた石柱を築いたとされる。釈迦の彫刻は作られなかったものの、仏教由来でない、ヤクシャ、ヤクシーといった夜叉・善神像が制作された。 紀元前2世紀、マウリヤ朝はシュンガ朝によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また紀元前1世紀にかけて、釈迦の人生と説法を描いた仏伝図(英語版)や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる。奉納を目的として石板やフリーズに彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としてはサーンチー第1塔の塔門浮彫(サータヴァーハナ朝)とバールフットの欄楯(英語版)が挙げられる。 インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。ブッダガヤのマハーボディー寺院は、ビルマとインドネシアで同様の構造の寺院が建造された。スリランカ、シギリヤのフレスコ画は、制作年代においてアジャンタ洞窟のものよりも遡るとされている 。 サーンチーの塔 紀元前2世紀から1世紀ごろ 建造から数世紀かけ段階的に増築が繰り返された。釈迦の遺骨(仏舎利)を安置するストゥーパの周囲四辺には塔門(トーラナ)が配されている。インドにおけるこれらトーラナには、仏生図や本生図などが描かれた。 『アショーカの獅子柱頭』 アケメネス朝との交流に基づく、ペルシャ美術の影響が見られる。 『降魔成道』 2世紀 古都アマラヴァティ(英語版)出土 ギメ東洋美術館蔵 瞑想中の仏陀をマーラが襲う。このレリーフにおいては、不可視である仏陀が空の玉座(英語版)で暗示されている。 バールフット、プラセーナジット王と法輪のレリーフ
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