仏像の寸法体系としての「法量」
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「法量」の記事における「仏像の寸法体系としての「法量」」の解説
Clip 中国で極端に単純化・抽象化・様式化された仏像(北魏時代) 仏教が中国へ伝わると、中国でも仏像が作られるようになった。写実的な仏像を作ったガンダーラ美術と較べて、中国では仏像の様式が著しく変化し、抽象化され、インドの仏像とは全く異なる様式へと変化した。抽象化が行われた背景には、信仰教義上の理由と、技術的な理由があると考えられている。技術的な観点では、中国では自然の岩壁に巨大な仏を彫るようになったため、加工の困難さから彫刻がシンプルになっていったと考えられている。また、ガンダーラ仏像はもっぱら写実性に主眼が置かれていたのに対し、中国ではもっぱら美を目指して仏像が製作されるようになっていった。信仰教義の観点では、釈迦の「三十二相」が仏像に取り入れられるようになって、常人の姿とは大きく異なるようになっていった。たとえば、仏像の顔面・頭部・首は体に比べて著しく大きくなり、写実性の観点からは通常のヒトとは大きく異なる様相となった。 こうした「超人化」にともなって、仏像を作成するにあたって、その寸法や体の大きさ・長さの比率が体系化され、仏像の姿形を規定する制約となっていった。その寸法体系のことを「法量」と称する。 日本にはこの中国様式の仏像が伝播し、日本でも法量にしたがって仏像が作られるようになっていった。そのため、特に古代の仏像は「通常のヒト」とは体の各部の大きさやバランスが著しく異なっている。 飛鳥の佛像は我々には藝術的形態の上からは畸形に見える。 — 木下杢太郎、『天平彫刻』「天平時代の佛像に對する斷片的考察」 日本で最初に作られた仏像の作者とされている鞍作止利を筆頭に、古代の日本では仏像製作に携わる職人は渡来人に限られていた。白鳳時代でも渡来人の子孫に限られ、わずかに日本人がその手伝いをした程度と考えられている。天平時代も渡来人や遣唐使として唐に渡った経験のある高僧に限られていた。 日本人の職人が本格的に直接、ひろく仏像を彫るようになったのは平安時代以降と考えられている。この頃には、中国で醸成された抽象化された仏像の姿は日本風にアレンジされ、再び写実性が取り入れられて作風は一変した。しかし写実主義を採用するとしても、法量として定められている各種の寸法や比率を逸脱することは許されないことであり、現実の人体のリアルな表現と、三十二相のような超人的な姿をいかにして両立させるかが、仏師を悩ませることになった。また、これらの変化と並行して、はじめは釈迦の特徴とされていた三十二相が全ての仏尊に適用されるようになっていき、菩薩像や観音像も「三十二相」に則って表現されるようになった。 ※本節では後述する問題から「尺」の換算値をあえて記載しない。
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