仏像時代(紀元1世紀 – 現在)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 12:57 UTC 版)
「仏教美術」の記事における「仏像時代(紀元1世紀 – 現在)」の解説
「w:Greco-Buddhist art」、「w:Mathura art」、「w:Amaravati Marbles」、および「インド美術#古代中期」も参照 2020年時点で、最古の仏像は、ガンダーラかマトゥラー産か、結論が出ていないが、イラン系の王朝、クシャーナ朝のカニシカ王(在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。カラチ博物館所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、北インドのマトゥラーと南東インドのアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた。 なお、初期仏教の末期に成立したとされる『増一阿含経』には造仏像の功徳を説く記述が存在する(優填王造仏像伝説)。ただし、これに対応するパーリ語経典『増支部』には、この記述は存在しない。 ヘレニズム文化は、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によってガンダーラにもたらされた。 マウリヤ帝国の建国者であるチャンドラグプタ(在位紀元前321–298年)は、4世紀末のセレウコス・マウリヤ戦争(英語版)でインド北西部のマケドニア領(サトラップ)を征服した。そのチャンドラプタの孫であるアショーカ王(在位紀元前268-232年)はインド亜大陸に覇を唱えたが、カリンガ戦争の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}……同様にして、ここ王の領土において、〔すなわち〕 ヨーナカ(ギリシャ人)、 カンボージャ、ナーバカ、ナーバパンティ、ボージャ、 ピティニカ、アンドラ、パーリンダにおいて、到る処で、〔人びとは〕天愛の法の教誡に従っている。 —アショーカ王碑文 アショーカ王の時代には過去仏信仰がすでに始まっていた。初期の仏像美術において、歴史的な仏陀も過去七仏の一つである釈迦牟尼仏も(大乗仏教成立以降は阿弥陀仏も)、瞑想する仏陀として同様の表現方法が行われた。それゆえに、仏陀の周囲に施された装飾が文脈を理解し、どの仏陀であるか判別する上の鍵となる。
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