造像・刻字の年代
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「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の記事における「造像・刻字の年代」の解説
1935年、福山敏男は論文「法隆寺の金石文に関する二、三の問題」(『夢殿』13号)において、本銘文中にある薬師如来像の造像・刻字の年代・607年を否定しているが、その根拠の一つに銘文中の「天皇」の語を挙げ、「推古朝(在位・593年 - 628年)にはない事でそれ以後のものらしく、」と指摘している。推古朝には本銘文の他、天寿国繡帳の銘文など天皇号史料が多く存在するが、西野誠一はその福山の説に次のように賛同している。「推古朝には多数の天皇号史料の遺例があるが、次の舒明朝より斉明朝に至る40年近くの間、その史料が全くなく、続く天智朝以降はまた存在している。舒明朝から斉明朝の間のみ天皇号史料が断絶するという不自然なその事実は、推古朝においてそもそも天皇号が存在しなかったことを暗示している。(趣意)」(#天皇号の成立年代を参照)。 また、福山は同論文において、「薬師信仰は天武朝(在位・673年 - 686年)に入ってから日本にもたらされたと考えられることから、薬師如来像及び光背銘の年代は、推古朝をはるかに降り、天武朝以降のものと考えられる。」と述べている。これについて上原和は、「607年当時、薬師信仰がそれほど盛んではなかった。薬師寺創建(680年)のころが薬師信仰の盛んなときである。(趣意)」と述べ、福山の説を支持している。 その後、福山は薬師如来像の彫刻様式や本銘文の書風などの側面から否定説を補強している。彫刻様式について上原和は、「薬師如来像の顔立ちが金堂釈迦三尊像の細面に比べるとかなりふくよかである。飛鳥仏の特徴は「痩」、白鳳仏の特徴は「肥」であることから、現存の薬師如来像は白鳳文化の様式のものである。(趣意)」と述べている。銘文の書風について魚住和晃は、「これらの書法にはすでに隋唐書法の影響が見られ、実際の作製年代は7世紀の末期までに下げられよう。」と述べている(#書体・書風を参照)。 1979年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』を刊行し、その中で、「薬師如来像は金銅製であるが、その金鍍金が刻字の内に及んでいないことから、鋳造と刻字は同時ではなく、鍍金後の刻字であることが判別された。(趣意)」と発表した。これを受けて沖森卓也は、「(本銘文は)推古朝の製作とは判断できないものであることが明らかになった。」と述べている。 以上のことから、薬師如来像の造像・刻字の年代は7世紀後半、つまり法隆寺の再建時に新たに造像され、その後、追刻されたとの説が有力である。また、大山誠一は本銘文の成立時期を、上限が持統朝、下限は天平19年(747年)としている(1996年)。上限の根拠は持統朝が初めて天皇号を採用したこと、下限は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747年成立)に薬師如来像の記録があることによる。
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